2012/02/27

モノを情報化する3Dプリンタの破壊力

21世紀のモノ、カネ、サービス、情報の在り方について、elm200さんは以下の図のように表現されています。



カネと交換できるのはモノとサービスのみで、もはや情報はカネに交換できないというものです。詳細はエントリー「情報を売る」時代の終焉をご覧下さい。

一方でゴメスさんがエントリー「3Dプリンターが世界を変える9つの可能性」において、医療、研究、製造など様々な領域での将来の3Dプリンタの活用シーンについて言及されています。

さて、この二つの事象から何が言えるでしょうか。

3Dプリンタはデータを基に物体を作り出す、すなわち情報をモノに変換する装置、逆に3Dスキャナはモノを情報化する装置です。となると、これが普及するとモノ、カネ、サービス、情報の在り方はこうなります。


モノは情報とほぼ同一となり、モノをカネと交換することができなくなるのです。elm200さんは上述の一つ前のエントリーで「次第にモノ(≒カネ)は人生の大きな問題ではなくなっていく。」と仰っていますが、3Dプリンタはこの流れを更に加速するものになる気がします。

モノを売ることで生計を立てている人にとっては死活問題ですが、モノを手で作る労力から解き放たれた人間がその余裕を次に何に活かすかを考えるのはちょっと楽しかったりします。モノを作る喜びも失うかもしれませんが。

新しい技術がどのような価値観の変革を生み出すのか、楽しみですね。

では。


【2020/12/27 追記】
この見立ては完全にハズれましたね。前提の「情報はカネに交換できない」というところから間違っていて、いまでもAmazonやnoteで情報はガンガン売れてます。

あと3Dプリンターもいまいち広がってないですね。ときおり見かけるけれど、まだ導入・活用のハードルが高い感じ。一家に一台的になればまた生活も変わるんでしょうけど、だいぶ先になりそう。

幸せにする順序

人が生きる理由を画一化する気は無いですが「幸せ」というのが一つのキーになっている人は少なからずいると思います。

僕もそのうちの一人なので、今回は幸せにする順序について考えてみたいと思います。

結論から言えば、周囲を幸せにするには自分に近い順から幸せにしていくべきだと思っています。そうしないと継続性が保てないからです。

誰かを幸せにするには、そこに労力をかけるだけの余裕が必要です。余裕が無い状態で身を削って周りを幸せにしようとしても、いつか自分が行き詰まってしまいどこかで破綻を来たします。受け側にとっても、そのような状態の人に助けられても正直心境は微妙だと思います。何かこう恩義を押し付けられたようで。

継続的に周囲を幸せにするためには、やはり自分に近い側から順番に幸せにしていく必要があるのです。

例えば家族を例に挙げると、幸せにすべき順番は
①自分自身
②直接の家族(親、配偶者、子供)
③親類
④地域社会
です。この順番で幸せにしていけば、恐らくその状態は一定の継続性が維持できると思います。

もしこの順番を逆転させ、例えば自分の幸せを犠牲にして子供を育てようとしても、何らかの無理がそこに生じます。極端な話「誰のお陰で飯が食えてると思ってるんだ!」「育ててくれなんて頼んでないだろ!!」なんていうどこぞのドラマのワンシーン的な状況になりかねません。
※子供のために身を削ったとしても「子供の成長が最大の幸せ」である場合は、それで自分自身が幸せになってるので問題無いと思います。自分自身が幸せであることを全力で表現しましょう。

会社の場合も同じです。会社が幸せにする対象としては、従業員、顧客、社会など様々ありますが、これも近い順すなわち
①従業員
②顧客
③社会
の順で幸せにしていくべきだと思います。この順番が逆転してしまうとどこかで無理が生じて破綻してしまいます。順序が守れてさえいれば、その結果としての継続的成長が実現できるのではないでしょうか。

もちろん現実においては、ここまで単純でないケースも多々あると思いますが、一つの原則論としてしっかり押さえておきたいポイントだなと思います。

では。


【2020/12/27 追記】
一般論としてその通り。しいて追記するなら、②家族 と③親類 の間に「友人」が入るかな、というところ。

このエントリーを書くきっかけになったのは、当時所属していた会社の企業理念。「事業の社会貢献度、顧客の満足度、売上・利益の継続的な成長、社員の満足度、このすべてにおいて高いレベルでバランスのとれたエクセレントカンパニーを目指す」というものだったのだけれど、これに対して「そうは言ってもリソースには限りがあるんだから、優先順位をつけてクリアしていかないとどれも中途半端に終わるんじゃないの?」と考え、ではどう優先順位をつけたらよいかを考えた結果行き着いたのが、近い順という解でした。

[朝活メモ 2/23 @大崎]ソーシャルについて考えた朝

かなり時間が空いてしまいましたが、2月23日(木)に参加した朝活のメモです。

僕は今渋谷、五反田、大崎での朝活に参加しているのですが、今回は大崎のお話です。

大崎朝活は
・会場はゲートシティ大崎内のスタバ
・時間は 7:00~8:30くらい
・人数は10名前後
・ テーマは参加者間の持ち回りで毎回設定。(テーマ設定者が当日の司会進行も担当)
といった感じで開催されてます。

今年1月からちょいちょい参加させて頂いているのですが、今回初めてテーマ設定&司会を担当させてもらいました。

テーマを選ぶにあたり、世の中的にホットでかつ自分にとっても興味があるテーマがいいなぁと思い今回は「ソーシャル」をテーマにしました。 「やってみたいぞ!ソーシャル○○!」と題し、参加者各位にソーシャル上でやってみたい活動を持ち寄ってもらい、それについて議論するという内容。
※ここで言うソーシャルとはソーシャルネットワークを活用することで出現した新たな活動領域のことを指しています。

さて当日。結果からいくと、ソーシャルというテーマはやはり関心が高いようで非常に活発な議論が繰り広げられました。

個々の議論については可能な限り別途まとめさせて頂きますが、総論としては
・ソーシャル領域の全体像はまだ誰も見えていない。
・「現時点では成功か 」と思われる事例は多々あるが、長期的に見てそれが正解かというのはまだ分からない。
・ ソーシャルを活用していくには、個々がその力学の理解に努め、主体的に取り組んでいく必要がある。
といった感じかと思います。(かなり主観が混じってますが。。)

というのを受け次回は大枠では引き続いてソーシャルをテーマにしつつ、現在起きていることを基に更に理解を深めようということで「熱いぞソーシャル!事例共有会!」と致しました(連続で司会させて頂きます)。参加予定の皆様、是非盛り上がっていきましょう!

反省点としては、「ソーシャルとは何ぞや」という点での議論の盛り上がりを予見しきれず、持ち寄ってもらった「やってみたいソーシャル○○」について、ほとんど触れられなかった点です。。すいません。以下にお持ちより頂いた○○の一覧記載致しますので気になる○○がありましたら、是非次回の場や個別にて聞いてみて下さい。

とっても勉強になりました!次回もはりきっていきます~(^^♪

■当日お持ちより頂いた「やってみたいソーシャル○○」
・ソーシャルプロデューサー/A部さん
・ソーシャルバカ/I屋さん   ※今度是非深掘りで聞かせてください!
・ソーシャルな会社(企業とは?)/O田さん
・ソーシャルビジネス/K谷さん
・ソーシャル芸人(ネタ作り)/高木
・ソーシャル ファイナンシャル・パーソナル・仲介媒介 コンサルタンツ/T野さん
・ソーシャルエル活/M田さん   ※これも知りたい・・・!

■冒頭にて紹介した「ソーシャルとは何ぞや」の現時点での高木の理解。
ソーシャルとは・・・
・通貨は「共感」
・アクションは「創作」「発信」「参加」「共有」
・使う道具は
「庭」=ブログ、Facebookページ等。自分を自由に表現する場。※城だと防御的なイメージが強いというご意見頂きましたので、庭にしました。
「拡声器」=ツイッター等。創作物、意見等を拡散させるツール。
「相関図」=Facebook、mixi等。ソーシャルグラフを形成するツール。


【2020/12/26 追記】
あいかわらずソーシャルの読み解きに苦悩していた頃。そもそもソーシャルという言葉の定義が定まっていない中で迷走してる感は否めないですが、ちょいちょい今に通じるいいポイントを突いてますね。

ここで挙がっていたアイデアを今風に整理するならばその軸は

・オープン or クローズ
・オンライン or オフライン
・支援 or 参加
・同期 or 非同期

あたりになるのかなと思ったりします。

2012/02/22

走る楽しみ4タイプ。

僕は走るのが結構好きです。最近ちょっとサボり気味ですが、それでもちょいちょいマラソンとか駅伝の大会に出てみたりしてます。

その「走る」。一口に走るといっても実は様々な楽しみ方があるので、それをちょっと整理してみます。ランニングを始めるのを躊躇しているあなたにぴったりの走り方が見つかるかも!?

さて整理と言えば2×2マトリクス。今回は「時間制限」「目的地」の有無を軸に分けてみます。

こんな感じ。


ふむ。いやー、どれも良いですね。制限時間を設けなければ気軽にランニング楽しめますし、あればあったで自分を追い込むM的な走りが楽しめます。

一方で目的地があればもちろん到達の喜びがありますし、特に目的地を設けない周回コースであれば余計な邪魔(信号とかクルマとか)が入らずにランニング(や考え事)に集中できます。

4タイプのどれも立派なランニングの楽しみ方です。その時々の気分で自分がやりたい楽しみ方をすれば良いと思います。個人的に好きなのは時間制限を設けないジョギング系ですね。

一点注意しないといけないのは、異なるタイプを選択している人同士は一緒に走ってはいけないということです。選んだタイプが違う人はそもそも走る目的が違います。目的が違う人と一緒に走っても感じるのは楽しみではなくストレスでしょう。そうなるとお互いに不幸になってしまうので、一緒に走るの目的が同じ人にしましょう。目的が異なる人とは、相手の楽しみ方を尊重した上でそれぞれ個別にランニングを楽しみ、終わった後で一緒に美味しくビールを飲むのがベストです。

以上、ランニングを「時間制限」「目的地」という軸を使って整理してみました。エンジョイ ランの参考になれば。

今回使った「時間制限」「目的地」という軸、他にも色々使えそうですね。だもんで次回は「仕事」に対してこの軸を使って整理してみようと思います。

では。


【2020/12/26 追記】
今回はランニングがテーマでしたが、ここで唱えた「一緒にいてストレスを感じる人とはそもそも一緒にいなくていい」というのは僕の行動原理の一つです。もうね、合わない人とは驚くほどあっさり付き合いをやめます。

なにかに強く依存すると、それに伴う望まぬ人との付き合いも我慢しないといけなくなるので、できるだけ依存が発生しないよう、自由と余裕を増やしておきたいと日々考えております。

2012/02/16

モノの数。基本は0。

今回はモノの数について考えてみます。結論から言うと、
・基本は0。
・止むを得ず1。
・2以上はカオス。
だと思っています。

基本は0。モノが無くて済むのであれば、無いのが一番です。モノが在るということは、そこに必ず何らかの負荷・負担が生じます。その負担を無くすために、無くせるものは徹底的に無くした方が良いです。無くすことで、これまでの負担は余裕に変わります。

例えば、僕は今ほとんどカバンを持たない生活を送っています。それによりカバンによって発生していた負担
・重い
・邪魔(手がふさがる)
・お金がかかる
から開放され、とっても快適になっています。時折手提げカバンを持って電車に乗ると、吊革につかまりながら本(Kindle)を読むことができず、物凄く不自由だなーと感じます。

やっぱり無くて済むものであれば、無いのが一番です。

とは言えどうしても必要なものはあります。その場合その数は1つだけにすべきです。1つであればそれを「使う/使わない」の最低限の判断だけで済みます。(0であればその判断すら不要なので最高ですが。)

ところが2つ以上あると、「どれを使うか」という判断まで必要になるので非常に思考の負荷が高まります。そしてそれは時に問題のタネとなります。(場所をとるものであれば当然空間的負荷も高まりますし)

この話は責任者の設置なんかが分かりやすいかと思います。そもそも責任者なんか無くて済むのであればそれが最高です。でもどうしても必要なのであれば、せめて1人にすべき。これが2人以上になると「誰に頼むのか」「誰がやるのか」などなど考慮すべき事項が多くなり大抵上手くまわりません。

ので、やっぱり
・基本は0。
・止むを得ず1。
・2以上はカオス。
だと思います。

モノを無くせば、必ずそこに余裕が生まれます。

あって当然と思っているものでも、実は無くせるモノっていっぱい潜んでいると思います。それらを片っ端から見つけて、無くして、余裕ある生活にしていきたいなと思います。

では。


【2020/12/25 追記】
これは僕の基本理念というか習性です。部屋の中でもパソコンの中でも、何かを見つけるとまず「それをなくせないか」を考えます。無駄なものが身近にあるのが気持ち悪くて。

この習性のよいところは、無駄がなくなり余裕が生まれること。持ち物は衣装ケース3つ分しかないので、スペースはとらないし引っ越しも超かんたん。

デメリットは遊びがなくなること。おしゃれは完全に犠牲になっていますし、趣味もパソコンで楽しむものがほとんど。

そろそろどこかに腰を落ち着けてエレクトーンでも再開してみたいなとも思うけれど、どうなることやら。

2012/02/09

僕なりの仕事を選ぶ基準

前々回のエントリーで、僕にとっての「働く」は「世界をより良くすること」だと定義できました。それを踏まえて今回は、具体的に働く内容をどのように決めるべきかを考えてみます。

単純にいけば働く目的が「世界をより良くすること」なので、「できるだけ大きく世界を良くできること」を選ぶべきです。

が、悲しいかなそこへ対して様々な制約がつきまといます。

まず自分ができるかどうかという制限。僕は全くもって万能ではなく、できることが偏っているので「自分ができること/得意なこと」という制限がかかります。

また、潤沢な資産がある訳でもなんでもないので、当然「お金が稼げること」という制限がかかります。

というのを踏まえると、今の僕にとっての最善の選択は、
①僕が得意で、
②お金が稼げて、
③世界をできるだけいっぱい良くできる仕事
ということになります。

ただし、前述の通り理想としては③だけにフォーカスして仕事を選びたいです。①の制約はどうしても外せないとして、②の制約はできれば外したいです。もちろん②と③が両立している仕事がお得なのは間違い無いですが、②が前提となっているので見過ごされていたり、手が付けられていないビッグな③も多くあると思います。

そこを手がけるために、必要な生活コストをできるだけ小さくし、最低限必要なお金をできるだけ短い時間で稼げるようになりたいなと思います。そうすれば②の制約は外れ、お金になること/ならないことを分け隔てなくできます。

そのためには①の得意なことをしっかり磨かなきゃですね。

そんな感じ。

ふーん。


【2020/12/25 追記】
意識高いな。

実はこの時点で当時勤めていた会社を辞めることは決めていたので、会社員を卒業した後になにをやっていこうか・やっていくべきかを思案する中で生まれたエントリーです。

結局その後なにか崇高なことをするわけでもなく、沖縄を中心にふらふらしてきましたが、とりあえず生きてます。

2012/02/07

(朝活メモ)「褒める」は組織において極めて重要。

今朝は元気に朝活@五反田に参加してきました。今日のテーマは「とにかく褒める!」。二人一組(初対面)になってまずは自己紹介&近況共有。その後、会話の中から受けた印象をもとに、とにかく相手を褒めちぎるプレゼンをする、というものでした。

いざやってみると物凄く新鮮で楽しかったです。「褒めちぎるプレゼン」という目標があるので、とにかく会話の中では相手の良いところを探そうとします。これが非常に楽しいですし、そんなテンションなので必然会話も明るくポジティブなものになりますね。

でもって、自分が相手を褒めるプレゼンをすると同時に、自分が褒められるプレゼンが繰り広げるられる訳です。これがまたこっ恥ずかしくも、嬉しい。「まじめな好青年」って言われちゃいました。青年です、青年

そんな楽しい朝を提供してくれた本日司会のハシオさん、ありがとうございましたっ!

さて、といった朝を過ごしたので、これをきっかけにちょっと「褒める」について考えてみました。

「褒める」って何でしょうね?とりあえず分解してみましょう。褒めるを分解すると、

・評価軸の設定
・その軸に対する肯定的評価(絶対的 or 相対的)

ですかね。

例えば、
・可愛いね。
⇒容姿という評価軸に対する絶対基準での肯定。

・可愛くなったね。
⇒容姿という評価軸に対する相対基準での肯定。

・この資料、分かりやすい!
⇒分かりやすさという評価軸に対する絶対基準での肯定。

・うん、この資料物凄く分かりやすくなった!
⇒分かりやすさという評価軸に対する相対基準での肯定。

ってな感じです。

まず軸の設定があって、それが「そもそも良い」か「以前と比べて良くなった」のどちらかのケースで「褒める」が発生します。

これを「褒められる」側からみると、褒められるということは

・自分の行為と評価する側の基準軸が揃っている。
・その軸に対して、期待に応えられているか、改善が見られている。

ということです。一言でいえば「認められている」ということです。

となると、ある組織を形成し、その中における価値基準を設定している側にとって、「褒める」という行為は極めて重要です。褒めることがその組織での価値基準に沿った存在価値を認める唯一の行為だからです。

例えば「家庭」という組織。ここにおける価値基準の設定者は「親」です。大なり小なり親が決めた価値基準によって子供は評価されます。子供は親に褒められることで、自分の価値基準が親のそれと揃っていること、そしてそれが肯定的に評価されていることを感じるのです。ひいては「自分がここにいていいんだ。」という喜びと自信を持つでしょう。

「会社」という組織においても同様です。ここでの価値基準の設定者は「経営者(及びその下の管理職)」です。その経営者に褒められることで、社員はその会社(の価値基準)における存在価値を感じるのです。

逆に言えば「褒める」こと無しにその組織における存在価値を与えることはできません。もし褒められること無しに存在価値を感じているメンバーがいたら、それは設定者が決めた価値基準ではなく、メンバーが独自に設定した別の価値基準に対して感じている存在価値です。

ので、価値基準を設定した側にとって、褒めることは義務だと言って良いでしょう。義務です。義務。絶対にやらなくちゃいけません。「褒めない」は、存在価値を認める義務の放棄です。

ちなみに「叱る」は「褒める」ための準備です。「褒められない」のは

・当人の価値基準と組織の価値基準がずれている。
・基準に対する絶対値か増加量が足りない。

のどちらかです。これを指摘して褒められる状態へ導く行為が「叱る」です。ので「叱る」と「褒める」はワンセットです。叱った後に改善が見られた場合は当然義務として褒めないといけません。「叱るけど褒めない」は相手をイタズラに混乱させるだけです。

なんてね。

そんなことを考えるきっかけをくれた、素敵な朝活でした。今日お知り合いになれた皆様、今後ともどうぞよろしくお願いします。

ではでは。

関連エントリー:「褒める」はタイミングが命っ!


【2020/12/24 追記】
一般論をよそおいながらも、まったく隠しきれていない会社への不満w。まあ会社の上層部が龍論を読んでるのは知っていたので、メッセージのつもりで書いたってのもあります。

さておき、褒めるってのは日常のコミュニケーションはもとより、教育のシーンでも最重要項目のひとつ。教師に求められる能力の半分は教える力、もう半分は褒めるに代表されるコミュニケーション能力じゃないかと思います。

あと、当時はFacebookを通じて積極的に朝活なる集いに参加していました。このエントリーにでてきた五反田のやつと、大崎のやつによく行っており、この2つは信頼できる主催者のもと毎回ためになる内容でした。が、中には背後にあやしげな団体が見え隠れするものもあり、「世の中こえー」と思うと同時に、SNSを通じてのコミュニケーションは極めて慎重に、と改めて感じていました。

「世の中をより良くするために行動すること」を「働く」と呼ぶのです。

先日受けた研修の中で「あなたは何故働くのか?」という問いを受けました。率直に「世界をより良くするため」と答えたのですが、ちょっと周りと噛み合ってないというかしっくりこない感があったので、思考を整理してみます。

まず人の行動をお約束の2×2マトリクスで分けてみます。軸は対象(自分のため/他者のため)と効果(プラス/マイナス)です。

こんな感じ。


この中で、他者のために行うプラスの効果を持つ行為が僕にとっては「働く」に該当します。ので何故働くのかという問いに対する回答は当然「世界をより良くするため」となります。

一方で研修の他の参加者からは「お金のため」や「自己実現のため」といった答えも挙がっていました。これらの回答をした方は、そもそも思考の対象を黄色のエリアに限定して回答したのだと思います。そこから自分が実際に行う行為を選ぶ際の判断軸(=働く理由)として「稼げる/稼げる」「やりがいがある/ない」というのを適用しているのだと思います。

と、そもそもの思考の対象に違いがあったため、違和感を感じたのだと思います。

「働く」というテーマで話をする時は、どのレイヤーで話してるかをあらかじめ明確にしておくと議論が噛み合いそうですね。

さて、せっかくなので次回(と言いつつ次々回)はこれをベースに「働く」の領域に対して今想うことを綴ってみたいと思います。

ではでは。


【2020/12/24 追記】
この研修は謎だった。当時所属していた会社でマネージャー向けに行われた研修だったのだけれど、なぜこのタイミングで、この対象に、この内容で、この講師が行ったのか全くわからなかった。(たぶん講師もわかってなかった)

そんな無駄に費やした時間をどうにか意味のあるものにしようと書いたのがこのエントリー。「ブログネタになる」と思えば大抵の経験に価値を見いだせるブログって素敵。

2012/02/02

「対義語」の嘘

まことしやかに教え込まれ子供の思考を束縛する概念。それが「対義語」です。教えちゃダメですよね、これ。

世の中の概念は一つの軸で語れるものはほとんど無く、大抵は様々な軸で様々な角度から語ることができると思います。なのにAの対義語はBなどと決め付けるかのように教えると、子供はその一つの軸でしか考えられなくなります。

黒の反対は白?無色透明だって黒の対極にいますし、黒を単色と捉えれば多色だって答えになります。
好きの反対は嫌い?無関心だって好きの対極にいます。(これは有名なネタですね。。)

というか、対義語的なものは一つの概念を同じ軸で見ているという点ではむしろ類義語とも言えます。広義で考えれば、Aの反対はBなどと決め付けること自体そもそも無理な話な気がします。

昨年末にちきりんさんの講演を聴いて以来「多様性」というのが僕の中で重要なテーマになりつつあるのですが、対義語の押し付けは価値観の押し付けであり、子供の多様性を奪ってしまう可能性があるのではないかと危惧します。やめた方がいいですよね。

一方で類義語をみんなで出し合うのはとっても良さそう。自分以外の人が挙げた類義語から、その人がどんな価値観で物事を見ているのかを知ることができます。これは豊かな教養のに繋がりますね。

一つの軸にこだわらず、やわらか頭でいきまっしょい。

【おまけ語録】
「叱る」と「褒める」というのは同意語だ。(野村克也)


【2020/12/23 追記】
価値観の押し付けがダメと主張しながら、「対義語を教えちゃダメ」という主張を押し付ける香ばしい一品。

まあ言いたいことは分かるし、自分なりに世の中をどう見るかに苦闘していたのもよく分かる。

教育とは教える対象の自由度を高めるために行うものなので、そこを意識した伝え方、言葉の使い方はこれからも意識していこうと思います。