2011/12/31

これからの「安定した生活」とは

特段新しい話でも無いのですが、これからの「安定した生活」というものがどんなものなのか、僕なりにまとめてみたいと思います。ここでいう「生活」は最低限生きていけるレベルでの暮らしをイメージしています。

前々回より登場頂いている(マイブームになりつつある)マズローさんが言うところの、LV2の安全欲求が満たされている状態です。その先には「生きがい」を求めるステージが続いていくのですが、そこに触れられるほどまだ考えまとまっていないので、今回は安全欲求までで。

さて。まず「生活できているという状態」とはどんな状態かというと、「自分の周りに秩序が保たれており、当面生命を脅かす危険が無い状態」だと思っています。この「秩序が保たれている」というのが非常に重要なポイントです。

世界(言い換えれば地球)は、もし誰も何も力を加えなければそこにあるのは「混沌」です。各々が自分の欲望のためのみに動く、なんでもありの世界です(要は北斗の拳の世界)。混沌の世界の中では、人間(を含む生物全体)は常に生命の危機に脅かされます。その中で生き延びるためには自分の周りの空間に「秩序」を作る必要があります。その秩序が自分が生きていくに足るレベルに達したとき、初めて「生活できている状態」になるのです。

で、その秩序を作るには「力」が必要です。混沌の中に力を使って秩序を作っていくのです。じゃあその力はどこから生まれるのか。一番分かりやすいのは「個人」です。最後は自分自身でどうにかするしかありません。が、尊敬すべき先人の努力により他にも力を持つ存在があります。一般的な例を個人に近い順から挙げると「家族」「会社」「自治体」「国」といったものが、それぞれに力を持ち秩序を作っています(もちろん我々はそれらに対して何らかの対価を払っています。税金とか、時間とか)。すなわち、国/自治体/会社/家族/個人 それぞれが持つ力を積み上げた結果、我々は自分の周りに「生活できる状態」を作り上げているのです。

一般的な例を挙げましたが、別に「国/自治体/会社/家族/個人」の全てを揃える必要があるわけではありません。最終的な力の総和が、必要とされる「生活力」に達していればいいので、その配分は基本的に自由です。企業に属さずフリーランスで活躍されている方は、会社からは力をもらわずその分を個人の力で補っていますし、極端な話潤沢な資産がある方であれば個人の力だけで生きていくことも可能でしょう。


ぼちぼち本題です。ではそんな中で生活を「安定させる」にはどうしたら良いでしょうか。方法は大きく二つあります。

一つ目は各種の「力」間の依存関係を極力ゆるくしておくことです。たとえば国→自治体→会社 ががっちり依存していた場合、国が倒れると自治体/会社から受けていた力も一緒に無くなってしまいます。これは非常にリスクが大きいです。となればやはりこれらの間の依存関係はできるかぎりゆるくしておくべきです。多くの会社が事業の国際化を始めている理由の一つがこれでしょう(まぁ、そもそも国際化は不可避な状況ですが。。)。

別の観点では国(というか住むところ)と家族/個人の連携をゆるくしておくことも有効です。「日本」という国にでしか暮らせないのは日本が倒れた時にリスクになり得るので、日本以外でも暮らせるようにしておく、かつ日本を離れても家族/個人が持つ力は維持できるようにしておく、というのは安定化として非常に有効でしょう。(ちょっと観点変わりますが、必要とされる生活力が低いところに住んで生活を維持するという理由で、例えば物価の安い地方でも暮らせるようにしておくというのも有効だと思います。)

特に今お国があまり芳しくない状態ですので、お国が行き詰った際にどのように生活力を維持できるかはあらかじめ準備しておきたいところです。

二つ目は敢えて書くほどでもないのですが、「家族/個人」の力を普段から極力最大化させておくことです。どうしても国/会社/自治体については個人の働きかけで力を維持し続けるのは難しい部分があります(政治/行政/経営という形でそれに取り組まれている方は、本当に素晴らしいと思います)。となればやはり家族/個人で持てている力を大きくさせておく事が個人で取れる対策としては有効だと思います。

都合の良いことに、インターネットの普及、中でもソーシャルネットワークの拡大により以前よりも「家族/個人」が社会で力を持ちやすくなってきていると思います。これを上手く使って、家族/個人で力を持っていくのは良い方法の一つだと思います(もちろん他にも方法は山ほどあります。)

と、ごくあたりまえの話ではありますが、僕なりに生活を安定させる術をまとめてみました。

今年の終盤11月20日から始めたこのブログですが、読んで頂いている方本当にありがとうございます。来年ものんびりペースで書き綴っていきますので、お付き合い頂けると嬉しいです。

よいお年を。


【2020/12/20 追記】
特段新しいことを書いているわけではないけれど、周囲に対する見方を自分なりの言葉でしっかりと表現できるようにしておくのは大切だと思う。

これを書いた当時は会社員という立場だったのだけれど、その後フリーランスとなり個人としての力がそれなりについたので、会社に依存する度合いは大きく下がっています。

というのもあり、周囲への関心は年々低下。自分満足の最大化を目指して日々のんびりと暮らしています。

2011/12/27

多様性のある世界は自由な世界 ~ちきりんさんの講演を受けて

先日ちきりんさん(@InsideCHIKIRIN)の講演を聴いてきました。その中でメッセージとして語られていた多様性を持つ世界というものについて、ちょっと考えてみます。

ちきりんさんは多様性のある世界を豊かな世界だとおっしゃっていました。多様性に富み、選択肢が多くある世界は豊かな世界だ、と。賛成です。これを僕なりに表現するなれば、多様性のある世界は「自由な世界」だと思います。

人はそれぞれに「あるべき姿」を持っており、それが自由に表現された結果多様性に富んだ世界になるんじゃないかと思います。

で、そのあるべき姿を自由に表現するには、思考にとりついている様々な制約を取り外す必要があります(ちなみにこの制約は慣例、規則、経験、常識といった名を語り次々と押し寄せてきます)。その思考の制約を外すのに必要なのが「自分のアタマで考える力」なんだと思います。

多くの人が自分で考え、思考的に自由になり、自分のあるべき姿を存分に表現できる多様性に富んだ世界になればいいな、と思います。

ちなみにこの「全員が考える世界」個人的にはFacebookに代表されるソーシャルネットワークととても相性が良いのではないかと思っています。(講演の最後に質問させて頂いた話ですが。)

全員が考え、多様性が具現化し、同じ方向へ向かいだした人達がソーシャルネットワークでつながり、社会に対して大きな影響力を持っていく。そんな流れが今後生まれていくのではないかと思います。

楽しみです。


【2020/12/19 追記】
今も昔もちきりん大好き。講演会にはこの回を含めて2回行っています。

当時掲げていた3つの信条「自由・自然・信頼」が、後に「自由・自然・多様性」へとアップデートされるのですが、振り返ってみればそのきっかけとなったのがこの講演だった気がします。

この頃のちきりんさんは完全に謎の女性で、姿はもちろん声を聞くのすら講演会に足を運ばないといけなかったのですが、今やVoicyで毎日声が聞けます。よい時代になったものです。


2011/12/25

なぜ男性はカラオケで大塚愛を好むのか

知人のカラオケ研究家によると、男性が選ぶ『恋人に歌って欲しいカラオケソング』で大塚愛が上位に多数ランクされているそうです。

1位:さくらんぼ(大塚愛)
2位:プラネタリウム(大塚愛)
4位:大好きだよ(大塚愛)            (注:2006年データ)

なるほど、確かにこれは多い。上位独占と言っていいレベルですね。かっこいいかわいいを論じた身としてこの結果は非常に興味深いので、今回は「なぜ男性はカラオケで大塚愛を好むのか」を考えてみます。

まず仮説を立ててみます。「男性が好む」のは、女性が大塚愛を歌うことで何か男性の欲求が満たされるからではないでしょう。それは何か。人が異性を欲するのは「種として生き延びるため」なので、恐らくそれに繋がる要素が大塚愛に含まれていることがまず予想されます。他に考えられる欲求は・・・・・・イマイチ思いつかないので、ここは欲求研究の第一人者マズローさんにご登場頂きましょう。マズローの欲求段階説によると人間が持つ欲求は低次(原始的)なものから順に
  1. 生理的欲求
  2. 安全の欲求
  3. 所属と愛の欲求
  4. 承認の欲求
  5. 自己実現の欲求
だそうです。種として生き延びるための欲求はLV3ですかね。では、LV3を中心に「大塚愛のカラオケ」がこれらの欲求を満たす要素を多く持っているのかどうかを検証してみます。

検証に先立ち「大塚愛のカラオケ」を要素分解しておきます。「大塚愛のカラオケ」の構成要素は
  • 歌詞
  • メロディ・テンポ
  • 映像
  • 振り
といったところでしょうか。この中で「声」は演者固有のもので汎用性を帯びないため対象外とします。「振り」も前出の氏の場合は標準搭載かと思いますが、一般にはあまり付加されない要素なので対象外とします。

ではいよいよ「歌詞」「メロディ・テンポ」「映像」のそれぞれが、どういった欲求実現要素を持っているか確認していきます。

まずは「歌詞」。これは検証しやすいですね。順番に見ていきましょう。今回ランクインした3曲の歌詞はそれぞれこんな感じです。

さくらんぼ  /プラネタリウム /大好きだよ。

これらの歌詞の中に「種として生き延びるため」、要は子を残していくための欲求が満たされる要素を探してみると・・・ある!あるね!ウヨウヨあります!

◇さくらんぼ
・笑顔咲ク 君とつながってたい/抱き合ってたい
・あげたいものは もちろん 全力の愛です
・1つでも欠けてたら  とんでもなく 足りない!足りない!足りない!!二人の絆
などなど。タイトルの「さくらんぼ」を含め、全体的に一緒に居たい繋がってたいテイストのフレーズ満載。

◇プラネタリウム
・行きたいよ 君のところへ 今すぐかけだして 行きたいよ
・1番に君が好きだよ 強くいられる
・会えなくても 記憶をたどって 同じ幸せを見たいんだ
「会えない」世界観ですが、一緒に居たいテイストはやはり強い。

◇大好きだよ。
タイトルから歌詞からもう全部まんま。

と、まずは歌詞に男性の欲求(LV3)を満たす要素があることが確認できたと言って良いでしょう。 他のLVの欲求に繋がる要素は・・・特になさそうですかね。

続いて「メロディ・テンポ」。これ、専門的な知識が無いんで正直良く分からないです。ただ、メロディ・テンポは単なる音なのでLV2以上の欲求には関連しないと思います。関連するとすればLV1の生理的欲求。人は母親のお腹に居た頃から馴染みのある心臓のテンポを心地よく感じる、って話を聞いたことがあります。ので、テンポと生理的な心地よさは多少相関があるのかも知れません。ので、もし大塚愛の曲のテンポが人(男性)に何らかの心地よさを与えるのであれば、男性が好む理由になり得るのかなと思います。

最後に「映像」 。大塚愛、正直グッドルッキングです。PVも観てて楽しいです。それ故PV観たさにカラオケでリクエストされるということも、あるにはあるでしょう。が!!PV観たさに女性に曲をリクエストするなんて、男の風上にも置けません。不許可です。なので、これは僕の判断により「大塚愛のカラオケを好む理由」には入れません。

と、ここまでで判明したのは
①大塚愛の歌詞には男性の子孫を残す欲求(LV3)を満たす要素が含まれている。
②曲のテンポがLV1の整理的欲求を満たす可能性がある。
ということです。

②は前述の通り、今の僕の知識ではこれ以上の考察はできないのでこれ以上の深堀りは止めておきます。

①につき、他のランクインした曲はどうなのかを確認しておきたいと思います。

今回ランクインした他の曲と歌詞は以下の通りです。
3位:カブトムシ(aiko)
5位:未来予想図Ⅱ(DREAMS COME TRUE)
6位:明日への扉(I WiSH)
7位:LOVE LOVE LOVE(DREAMS COME TRUE)
8位:Story(AI)
9位:ENDLESS STORY(伊藤由奈)
10位:ハナミズキ(一青窈)

やっぱり全体的に「一緒に将来を描く」的な歌詞が多いですね。例外は10位のハナミズキ。「どうぞゆきなさい/お先にゆきなさい」「君と好きな人が百年続きますように」と、一緒に居ることは奨励しているものの、視点が第三者的です。ダイレクトに「あなたと一緒に居たい!」ではないですね。この辺が10位にとどまった理由だったりするんでしょうか。(分かってて書いてるんですが、 ランクインして曲に限らず邦楽は「愛してる/一緒に居たい」を謳ったものばかりですよね。。それも含め突っ込みどころ満載の分析なんですが無理やりまとめます。)

という訳で、「男性がカラオケで大塚愛を好む理由」は
①大塚愛の歌詞には男性の愛の欲求(LV3)を満たす要素が多く含まれている。
②曲のテンポが生理的欲求(LV1)を満たす可能性がある。
③単純に大塚愛のPVが観たい

となりました。わー、パチパチパチ。

ちなみに氏は「歌の上手さはモテ要素の一つに過ぎず、さして重要ではない。」と断じておられます。これには男性に限っては僕も賛成です。僕によれば(モテに必要な)「かっこよさ」は生きる力の強さなんですが、「歌が上手い」はイマイチ生きる力の強さとなり得ないんですよね。「歌が上手かったおかげで何とか生き延びられた」って話は聞いたことありません(本職の人は別でしょうが)。ので、「歌が上手い」は「かっこいい→モテ」にはあんまり繋がらないのです。ただ上記分析の通り異性を惹きつける力(=かわいさ)にはなり得る可能性があるので、そういう意味で「モテ」と相関するかもしれません。

以上で今回の分析を終わります。想像以上に面白かった!!メリークリスマス☆


【2020/12/19 追記】
駄文っぷりとか、論理展開の雑さとかを差し置いての一番のツッコミどろこはその投稿日時。
 2011/12/25 - 08:27
オメー、クリスマスの早朝から何ヤッテンダヨ・・・

2011/12/23

ソーシャルハラスメントという概念

先日参加したとある朝活の中でふと「ソーシャルハラスメント」という概念を思いついたのでまとめておきます。

ソーシャルハラスメントとは、ソーシャルネットワーク内での個人情報公開基準が異なる二者の間で発生する不快感、軋轢のことです。(英語としての語感は考慮してません。「ソー活」と同じくらいいいかげんなジャパニーズイングリッシュです。)

まずはソーシャルハラスメントの一例を紹介。Facebookをバリバリ活用しているAさんと、Facebookなどのソーシャルネットワークサービス(SNS)には無関心なBさん。両者が共に参加したした飲み会の集合写真をAさんがFacebookへアップし、大人数へ向けて公開。それを聞いたBさんが「なんで私の写真が公開されているのよ!」と激高。これがAさんのBさんに対するソーシャルハラスメントです。Facebookを始め実名でSNSを使う人が増えつつある中、今後はこんなトラブルが頻繁に起こるようになるのではないかと思います。

では、ソーシャルハラスメント(めんどくさいんで以下ソーハラ) を防ぐにはどうしたら良いでしょうか。

ソーハラに限らず各種ハラスメントを防ぐには二段階のステップが必要です。「軸の認識」と「大小関係把握」です。

まず「軸の認識」。ハラスメントで訴えられる人はそもそもなぜそれが問題なのか分からない人が多いです。それは人によって程度に差がある軸の存在をそもそも認識できていないからです。セクハラの背景には「性的表現の許容度」という軸が、パワハラの背景には「権力に基づく圧力の許容度」という軸があります。同様に、 ソーハラの背景にはどれだけネット上での個人情報開示を許容できるかという「ソーシャル開示度」という軸があります。まずそういう軸があることを認識しないと、 ソーハラは防げません。 無意識のうちにソーハラを犯し続けます。

続いて「大小関係把握」。軸を認識しただけではソーハラは防げません。軸に対する程度の大小ギャップがハラスメントを生むので、自分と相手のどちらの開示度が高いかを認識する必要があります。相手の開示度が自分より高ければ、自分がハラスメントを与える心配はないでしょう。むしろ自分がハラスメントの被害に合う可能性があるので、会話の中でやんわりと自分の開示度が低い事をアピールしておくのがお薦めです。

逆に自分の方が開示度が高い場合は自分がハラスメントを与える可能性があるので注意が必要です。自分の感覚で情報を公開すると、相手に不快感を与えかねません。そんな時は、「この写真公開するけどいい?」と事前に了承を得るか、念のため公開を控えるのが妥当な行動でしょう。

という風に「ソーシャル開示度」という軸の認識と、その大小関係の把握を意識することで、ソーハラは防いでいきましょう。

ちなみに、各種ハラスメントなどのトラブルの回避には「トラブルを表す言葉の存在」が非常に有効です。言葉を触媒として、軸の存在を認識できるからです。セクハラだってパワハラだってこれらの言葉が使われるずっと前からあった事ですが、 問題として取り上げられ解決策が積極的に講じられるようになったのは、セクハラ・パワハラという言葉が 広く認識されてからです。

という訳で、ソーハラを未然に防ぐには「ソーシャルハラスメント」という言葉が広く使われることが非常に効果的なのです。さぁみんなでソーハラ使いましょう。 (ソーハラしましょう!ではないです。断じて。)

で、晴れて2012年の流行語にソーハラが選ばれた暁には、ユーキャン様は是非私めを代表として授賞式へお招き頂ければよろしいかと存じます♪ 2011年12月23日現在、「ソーシャルハラスメント」での検索結果は577件。1位取れてればチャンスはきっとある!!

また一つブログを更新するモチベーションが増えました。楽しいなん。

p.s.
企業の労務担当の方、うっかりソーハラ関連のお仕事が増えたらごめんなさい。

 

(2012/4/22追記)
追加でもうちょっと整理してみました。→ 再考・ソーシャルハラスメント


【2020/12/18 追記】
まだユーキャンから連絡はこない。おかしーなー。

さておき、令和2年12月にGoogleで検索してみると

 ソーシャルハラスメント      約 880,000 件
 ソーシャルメディアハラスメント   約 557,000 件
 SNSハラスメント         約 2,160,000 件

という状況で、表記ゆれはあるものの用語としてはそれなりに広まっていますね。

当時、溜池山王のオフィスのトイレでSEOの神の師匠から「ソーシャルハラスメントのページにSEOかけておいたから」とサラッと伝えられました。なにそれイケメンすぎる。


2011/12/21

「かわいい」は種として生き延びる力の強さ

前回の「かっこいい」に引き続いて、今回は「かわいい」がテーマです。

この「かわいい」も本質的には「かっこいい」と同様に生き延びる力の強さだと思います。 ただ大きく違うのが、かっこいいが「個として生き延びる力の強さ」であるのに対して、かわいいは「種として生き延びる力の強さ」だという点です。

人間も含め動物は単体では種として存続することができず、オスメスが引き合う必要があります。その際の「異性を惹きつける力の強さ」が「かわいさ」だと思います。異性をひきつけるという点ではかっこよさと同様ですが、かっこよさは「個として生き延びる力の強さ」が副次的に異性を惹きつけるのに対し、かわいさは個としての強さは伴わず単純に異性を惹きつけるための力として作用する点が大きく異なります。

このかわいさ、一般に女性が強く持っていることが多い強さですが、別に男性が持っていても良いと思います。というか、人間はそれぞれ「かっこよさ」と「かわいさ」を様々な面で様々な度合いで持っているものだと思います。で、男女(でなくても良いのですが)それぞれが持つ「かっこよさ」と「かわいさ」が、できるだけ多く噛み合っているカップルが長続きするカップルなんじゃないかと思います。それこそが、(二人で一つの)全体としてバランスよく生き延びる力を備え、かつ多くの接点において惹きあっているという理想形。とすれば普段から相手の事を良く知る努力を重ね、お互いのかっこよさ、かわいさの引き出しの数を増やしておくのが大切なんじゃないかと思います。テキトーだけど。

なんだか書いててこっ恥ずかしくなってきたので、この辺で。


ちなみに、個として生き延びた先に種としての生存があると考えると、「かわいい」は「かっこいい」よりも先を見据えた高次の能力とも言えます。つまり何が言いたいかっていうと「男性は女性に絶対に敵わない」。


【2020/12/17 追記】
黒歴史2。というか「かわいさは個としての強さは伴わず単純に異性を惹きつけるための力」てのは、普通に問題発言。

かっこいいだのかわいいだの、当時は頭がピンク色だったのはよくわかった。

2011/12/16

「かっこいい」とは生き延びる力が強いこと

さて今回のテーマは「かっこいい」です。このかくも曖昧な言葉の定義にレッツトライ。

一言で言えば「かっこいい」とは「生き延びる力が強い」ことだと思います。
  • 筋肉隆々の人はかっこいいです。筋肉は体力的な強さの象徴だからです。
  • 英語がペラペラな人はかっこいいです。生活できるフィールドが広かったり、コミュニケーション取れる人が多いからです。
  • バイクを乗りこなす人はかっこいいです。行動範囲を広く持てているからです。
と、通常感じる「かっこよさ」の裏には大抵「生き延びる力の強さ」が紐付いています。人間と言えども動物の一種なので最も強い行動原理は「生き延びること」です。その人間が自分よりも強い生き延びる強さを持った人に対して持つ憧れの感情、これが「かっこいい」の正体だと思います。

ちなみにかっこいいと思った対象が異性であった場合、人はその対象と交際することでその強さを手に入れようと します。すなわち汎用的な強さを備えている人は、多くの異性からその力を欲されます。これが「モテ」の正体です。

なのでもし「モテたい」と思うのであれば、何かしらの生き延びる力の強さを磨くのが効果的なんじゃないかと思います。より多くの人からモテたいのであれば、より汎用的な強さを身に付けると良いでしょう。表面的な飾り立ては生き延びる力の強さにはつながらないので効果は無いです。

というのが僕の考える「かっこいい」の定義です。一般的には男性に対して使われることが多い言葉ですが、女性に対して使われる場合もほぼ同じ定義で通ると思ってます。

で、「かっこいい」ときたら次は当然「かわいい」ですよね。という訳で次回は「かわいい」を勝手に定義してみたいと思います。

【関連すると思う言葉】
かっこよくするのは簡単なこと。でもかっこよくなるのは難しい。(木村拓哉)


【2020/12/17 追記】
『これが「モテ」の正体です。』と臆面もなく言い切る厚顔無恥さがすがすがしい一品。確実に黒歴史だろ、これ。

とはいえ書いてる内容はまあまあまとも。この意味でのかっこよさは今でも追求しています。

2011/12/12

ローマ字教育が子供の英語力を毀損する

日本人は英語が苦手ですね。僕も苦労してます。その理由は様々挙げられていますが、こと英語の発音力の低迷についてはローマ字教育が大きく関連しているのではないかと思います。ので今回はその件について。

今はどうか知りませんが、僕が子供の頃は小学3~4年生ぐらいでローマ字を教えられました。当時は英語教育は中学からだったので、もちろん英語のエも知らないうちにまずローマ字を教わるのです。これが英語の発音力育成に致命的にマイナスだったと思います。ローマ字は「日本語の発音をアルファベットというなんとなく英語っぽいもので 擬似的に再現する」技法ですが、英語とはなんぞやを知らないうちにこのローマ字を教えてしまうことで、子供の頭に「英語の発音は日本語の発音で代替できる」という間違った認識を植え付けてしまうのです。

ローマ字を覚えるのは楽しかったです。今まで全く自分の手に届かなかったアルファベットとが、なんとなく操れるようになった気になれるからです。ただ、それはあくまで「日本語の 表記」の幅が広がっただけで、英語の門戸が開かれたわけでもなんでもないのです。しかし子供はそんなことまで考えません。覚えたばかりのローマ字を使いたくて、目に触れるアルファベット表記のものを片っ端からローマ字読み(日本語発音)します。たとえそれがローマ字表記の日本語であろうと、英単語であろうと。かくして中学に入り、ようやく英語の授業が始まった頃には「英単語をローマ字読みし、バッチリ日本語発音する子供」ができあがってる訳です。残念なことです。。

って訳なので、子供の英語力向上のためにはローマ字でへんな癖を付けられる前に英語を(少なくとも発音だけでも)教えておいた方が良いでしょう、というお話でした。

今は英語教育開始が早期化され小学5年くらいから始まってるようですが、まだその前にローマ字を教えてるようです。子供の将来のために、発音だけでも先回りして教えておいた方が良さそうです。

-----<ここからコメント>-----
Toshiwo Kaminishi
「頂門の一針」といふメルマガ1月16日號
http://melma.com/backnumber_108241_5962727/
にパソコン入力方式が英語力を削ぐといふことを論じました。

御一讀いただければさいはひです。
いいね! · 返信 · 1 · 6年前

Ryuhei Takagi
メルマガ拝読しました。
パソコン入力は頻度も高いので子供に与える影響はおおきそうですね。。
いいね! · 返信 · 6年前
-----<ここまでコメント>-----


【2020/12/16 追記】
根深いこの問題は令和になっても解消されていないですね。光明としてはYouTubeをはじめとしたネイティブの英語教材に触れやすくなったこと。これをうまく活用して幼少時から英語の発音に慣れておけば発音に対する苦手意識はかなり和らぎそう。

ディズニー動画のサブスクであるディズニープラスを英語と日本語日替わりで流しっぱにしておくと、自然に英語力が身につきそうだけどどうだろう。

パソコンでのローマ字入力が事態をより悪化させるというコメントをいただきましたが、今後は音声入力がメインになっていくと思うので、技術の進歩によりそこの懸念はうすれていきそうです。

2011/12/10

教育とは子供が自由になるのを手助けする営み

さて今回は教育とはなんぞやと言うことと、それをふまえての教師の在り方を書いてみたいと思います。(教育は僕がかなり強い関心を持っているテーマなんです。)

結論からいくと、タイトルにもある通り教育とは子供が自由になるのを手助けする営みだと思います。

「子供は自由でいいね。」といった言葉はとても耳馴染みのある言葉ですが、僕は逆だと思います。子供ってもの凄く不自由な存在です。体力的に出来ないことも多ければ、経済的に買えるものも限られている。行動が許されている範囲もかなり限定的です。(ちなみに最も不自由な存在は赤ちゃんです。彼らは食べることも、動くことも自分ひとりの力ではままなりません。)

その子供が自由を勝ち得ていくプロセスが「成長」と呼ばれるもので、教育はその成長を手助けし促進するための行為です。

例えば体力的な自由度を高めるための教育が体育、言語コミュニケーション的な自由度を 高めるのが国語・英語、論理・数量的自由度を高めるのが算数・数学です。

なぜ子供に対して教育という外部からの働きかけが必要かというと、子供は往々にして自分が多くの面で制限されている(=不自由である)ことを自覚できていないからです。そもそも無い自由度に対して子供が自分でその必要性に気づくのはなかなか困難です。ゆえにその自由度を持っている存在(=大人)が教えてあげる必要があるのです。

一方で教える側は自分が教えている内容を修得することで、どのような自由を勝ち得ることができるのかを子供に明確に説明できる必要があります。数学の問題に嫌気が差した生徒が発する「こんなのが解けて何の役に立つの?」という問いに堂々と答えられなければいけません。教育の目的は知識を詰め込むことではなく、子供を自由にすることなのですから。

更に言えば、教師には自分自身の自由度が高いことが求められます。その方がリアリティを持って自由を獲得することのメリットを伝えられるからです。子供に人気のある教師というのは、得てして自由度が高い教師ではないかと思います。自由度が高いからこそ、子供は「自分もそうなりたい」と思い慕うのです。逆に人気の無い教師はまず自身の自由度の低さを見直すべきでしょう。子供に目標とされるような自由度を獲得し、それを子供に伝えることができれば自然と子供も慕ってくると思います。

ちなみに教師ができるのは子供の自由度を高めるところまでです。その先、その自由度を子供がどう使うかは子供の自主性に任せるべきでしょう。

というのが僕の考える教育の定義、及び教師の在り方です。なにぶん素人考えなので、どこまで有効性を帯びているかは分かりませんが。指南頂ける本職の方いらっしゃいましたら是非ご連絡下さい。


【2020/12/16 追記】
これは龍論トップクラスの名文。一言一句余すところなく今でも同様に考えています。

当時から変わったことといえば、2014年の教育実習を経て晴れて教員免許を取得し、一応教育のプロとなったこと。教員として学校に就職することはなかったですが、その後プライベートの英語講師や、パソコン教室を経営するなかでも常に「いかに子どもの自由度を高めるか」を意識して活動してきました。

あと、オンライン家庭教師としてみっちり教えてきた甥っ子が最近志望大学に無事合格。よかったよかった。

2011/12/06

自然、自由、信頼それぞれの相関性

さてこれまでとりとめも無く自然、自由、信頼それぞれの紹介をしてきましたが、今回は各概念の相関性について書いてみたいと思います。

結論から言えば、自由を中心に据え、自由と信頼、自由と自然が相互に高め合う関係かと思います。自然と信頼も直接関連してそうな気もしますが、うまく繋がらないので今のところは無理につなげずに自由を介して間接的に連動している、と捉えておきたいと思います。

個々の相関性について。

まずは自由と信頼の関連から。過去のエントリー(これこれこれ)で触れた通り信頼を作っていくにはメカニズムに従ったサイクルを回していく必要があって、それには色んなリソースが必要になります。そもそものベースとして相応の時間は必要ですし、提供およびその後の共同活動を行うためには、知識や機会やその活動を実現するための能力が必要となります。例えば一緒に海に潜りに行きたのであれば、海に対する強さ[=ライセンス]が必要なのです。すなわち強さを身につけ自由であればある程、信頼を築くアクションを起こしやすくなります。また提供によって作られた信頼関係は自由度となって戻ってくることもあります。仲のいい友達が車を貸してくれたとか、宿に困った時に泊めてくれたとかです。といった風に自由と信頼は相互に高め合う関係と言えます。

続いて、自由と自然。自然な状態は言わば「無駄がない状態」「維持するのに大きな力を必要としない状態」と言えます。すなわち自然な状態であればあるほど余裕は生まれやすく、結果自由になりやすくなります。逆に自由であれば、状態を不自然たらしめている原因を取り除くアクションを取ることができ、より自由な状態を作ることができます。ということで、自然と自由もこれまた相互に高め合う関係と言えます。

最後に自然と信頼ですが、ちょっと直接相関すると思えません。無理やりこじつければ、自然な状態は共感を生みやすく信頼につながりやすいとかありそうですが、なんかやっぱり無理やり感が拭えないので、今のところは直接つなげるのはやめておきます。

という訳で、自由を軸に自由と信頼、自由と自然が相関に高め合うというのがこの三つの概念の相関性だと思います。となると、この三つを重視する僕がまずは成すべきは自由度と高めることですね。それをベースに、信頼、自然もそれぞれ高めていきたと思います。

・・・と、最初のエントリーからこのエントリーまででひとまずは僕が重視する三つの概念の紹介を終えたいと思います。次回からは他の色んな概念や事象に関して、僕なりの考え方を綴っていきたいと思います。その際の分析軸も自然、自由、信頼になる・・・はずですが、まったく違ったらどうしようw

おっかなびっくり楽しく書いていきます。


【2020/12/15 追記】
自由がすべての源というのはいい線見抜いてる。その自由と、信頼・自然を結びつけて考察するというのは、やや自分の主張に拘泥してる感があるものの、よい試みだと思う。

このエントリーを書く少し前に小型船舶の免許やスキューバダイビングのライセンスを取るなど、自由度を高め新しい世界に踏み込む喜びを体感していたことも、このエントリーの背景になっています。

信頼のメカニズム その2~広め方

前回のエントリーでは信頼の深め方を書きましたので今回はそれを受け信頼の広め方について書きたいと思います。

信頼の広まりを論ずるにあたり一番重要なポイントは、一定の閾値を超えて深まった信頼関係は友人関係の間(ソーシャルグラフ)を流通しだす、ということだと思います。

要はかなり仲良くなった友達は他の友達にも紹介したくなる、ということです(逆に独占したいと思うこともあるだろうけど)。もちろんこれはソーシャルネットワーク出現以前から自然に行われていたことですが、その流通速度には雲泥の差が生まれています。

ソーシャル前の時代は、言って見れば友人間の物理的な口コミでしか信頼関係は流通しませんでした(マスメディアに露出している著名人は別として)。それがソーシャルネットワークという流通基盤がインターネット上に出来上がったことで、信頼が時間や空間の制約を越えて流通できるようになりました。ソーシャルインパクトとかソーシャル革命と呼ばれている事象の本質はきっとここだと思います。

ただし流通基盤ができたからといってどんな信頼関係でも直ちに流通する訳ではありません。流通するのは「一定以上の深みを持った信頼関係」のみです。あまりよく知らない人は、おいそれと大事な友人に紹介できない、そういうことです。以前のエントリーで深さと広さでは深さの方が大事と書きましたが、それはこういうことです。信頼が一定の深さまで達すれば自然と広まっていきますし、深み無くして広めようと思っても絶対に広まりません。

ので、前回のエントリーの内容も含めて信頼の総量を増やす方法をざっくりまとめると、
①自己の透明性を高める。(信頼関係を作るきっかけを多く持てるようにする)
②交流のある友人に対して積極的に提供・提案を行い、共同作業を通じて信頼関係を深める。
③深まった信頼関係をソーシャルネットワーク上で流通させ、次の提供機会を増やす。

となります。前回も書きましたが上記サイクルを回していくにはリソース(時間など)が必要になります。ので行き着くところは深さと広さと費やすリソースのバランスをどうとっていくか、というところになると思います。

僕の考える信頼のメカニズムはこんなとこです。これで自然、自由、信頼と僕が重視する三つの概念を一通り説明し終わったのですが、次回のエントリーでは三つの概念の関連性について触れ、三つの概念の紹介を締めくくろうと思います。


【2020/12/15 追記】
読んでて思い出したのだけれど、これを書いたのはFacebookやTwitterに代表されるSNSがそれなりに広まり出した頃。SNSの登場によって引き起こされる社会的な力学の変化に僕なりに対応しようと、色々考えていたのね。

ここで書かれている信頼のメカニズムに今の僕がさほど関心を示さなくなったのは、SNSがあって当然の世の中になりメカニズムとやらを意識するまでもなくなったからというのもありそう。自己透明性を高めようなどと思うまでもなく、自然にnote書いてますし。

こんな振り返りができるのも当時きちんと文章を残していたからなので、そこは昔の自分グッジョブ。

2011/12/04

信頼のメカニズム その1~深め方

さて前回のエントリーで信頼の量は
信頼の量=信頼の深さ × 信頼の広さ
と書きました。それを受けこのエントリーでは信頼の深め方について触れたいと思います。

信頼を深めるには二つの段階があります。最初が「透明性」の段階で、次が「提供」の段階です。

まず最初の透明性の段階ですが、これは相手と付き合うために必要な最低限の信頼関係を作るための段階です。乱暴な例を挙げるならば、Facebookにおいて「友達申請を受けるのは実際に会ったことがある人のみに限定」としている人は多いと思いますが、このレベルがおおよそ「透明性」のレベルです。人間同士の付き合いにおいて相手に対して見えない部分が多いと、謎が不安へと転換され信頼関係を築くどころではありません。信頼関係を作るには最低限付き合っても問題ないと判断できるだけの相手に対する情報が必要なのです。多くの場合実際に会うことによりこのレベルが達成できる(あるいはされないと判断できる)ので、「一度会ったことがある人は友達申請を受ける」という基準はそれなりに合理的なのだと思います。もちろんFacebookやmixiのプロフィールによりある程度補完できるところはありますが、やはり実際に会って確認できる情報量には及ばない、というのが実情だと思います。(今後テクノロジーの進化によって、ネット上に乗せられる情報が増えていった場合は分かりませんが。)

さて透明性によって築かれる信頼には限度があります。とりあえずお付き合いしても良い、というラインまでです。それを超えての信頼関係を作るには次の「提供」が重要になります。もちろん提供する側があればされる側もあるので要は両者の共同作業うということなのですが、全ての共同作業はどちらかからの提供(あるいは提案)から始まるものだと思うので提供という言葉を選びました。どちらかが知識や機会、リソースなどの提供を申し入れ、それを受けての共同の活動が行われることで両者の信頼関係は深まっていきます。逆にそのアクションが行われないと、いつまでも透明性の段階止まりの「とりあえず知り合い」の状態のままとなります。(決してそれが悪いと言っている訳ではないです。むしろそういう状態で留めておく知人もいないとリソースがいくらあっても足りません。)

ちなみにこの共同作業を通じて透明性はますます高まることが多いです。透明性が高まると次の提供の幅が広がり、結果として更に信頼関係が深まっていく、というのが信頼深化のサイクルです。

もちろん全ての人と永遠に深化のサイクルが続くわけではありません。多くの場合リソース(時間のことが多いですかね)や透明性の頭打ちによってサイクルも止まる時がきます。それでいいと思います。それがその人との最適な信頼関係なんだと思います。

個人的に唯一の例外が家族ですね。家族に対しては信頼関係の上限という概念がそもそもないですし、かけるリソースの制約もありませんから。

というのが僕の考える信頼深化のメカニズムです。実はこのメカニズムは、とある集いの場で出されたお題に対して即興で考えたものがベースになっているのですが、それなりに合ってそうな気もするので改めて文章にまとめてみました。

さて、次回はもう一つの構成要素「信頼の広め方について書いてみたいと思います。


【2020/12/15 追記】
んー、言ってることはそこそこ合ってるのだけど「ふーん」以上の感想が出てこないのは、今の僕がそもそも信頼にさほど関心がないからだと思う。

あとやっぱり「すごい理論見つけたった」的な文体がキモい。

2011/12/02

信頼という重要だけどまだ整理しきれていない概念

僕が自然、自由、信頼という三つの概念を大切にしていることは何度か書いてきた通りで、これまでのエントリーでは「自然」は世の中のあるべき姿、自由」は僕個人として在りたい姿という点に触れてきました。さて今回は最後の「信頼」について書きたいと思います。

正直この信頼は三つの中で一番考えがまとまっていない概念で、未だ日々思考錯誤を続けているところです。が、現時点での理解のスナップショットとして一度文章に書き起こしておきたいと思います。

信頼は僕自身の世の中との関わり方において重視している概念です。「自由」は自分が自分がを見る際の概念なのに対して、「信頼」は周囲と自分の関わりにおける概念です。自分による自分への満足度はいかに自由であるかであり、世の中からの自分の価値評価はいかに周囲と信頼関係を築くことができているか、だと捉えています。

ので、周囲と築いた信頼の総和を最大化させることは僕の人生において非常に重要なテーマです(最重要かもしれない)。身に付けた強さによって生まれた余裕、自由は信頼を最大化させるために使っていきたいですし、逆に言うと信頼を最大化させるために色んな点で強くなっていきたいなと思います。

さて、じゃあどうすればその信頼を最大化させられるかというと、自由にも生成メカニズムがあったように信頼にも生成メカニズムがあると思います。理屈屋っぽく数式に表すと
  信頼の量=信頼の深さ×信頼の広さ
だと思います。となると信頼を最大化するプロセスは、深さと広さをそれぞれ最大化するプロセスに分解できます。深さと広さどちらが重要かというと、深さだと思います。そう言い切る理由には流行りのソーシャルネットワークがからんでくるのですが、結構ややこしくなりそうな気がするので個別のエントリーにまとめようと思います。
次のエントリーでまず信頼を深めるメカニズムについて触れ、その次で信頼の広まり方について書こうと思います。


【2020/12/14 追記】
ごちゃごちゃ書きすぎ。まあ本人も「現時点でのスナップショット」と言っているのでやむなしか。あと「思考錯誤」のうまく書いたった感がイタい。

ここ数年で、世の中との関わりとかわりとどうでも良くなっているので信頼について考えることもあまりなくなりました。軽視はしないですけど、信頼稼ぐために何かするとも考えないですね。自分の満足第一で生きてます。

2011/11/23

僕が自由を重視する理由

前回のエントリーでは、僕の考える自由の定義とその生成メカニズムをまとめました。今回はなぜ僕がその自由を重視するのかについて触れたいと思います。

結論から言うと僕が自由を重視する理由は
・生き延びるため
・楽しむため
・周りに優しくあるため
の三つです。

まず最初の「生き延びるため」ですが、これは将棋の例が分かりやすいと思います。将棋は自分の王将が相手に取られる以外の選択肢が無くなるとゲーム終了となりますが、これは言い換えると生き延びる為の選択肢が無い状態になるとそこで終わりということです。まぁこれは極端な例ではありますが、要は人生を継続していくには最低限の自由度が必要だと言うことです。

次の「楽しむため」ですが、これは一つ目の「生き延びるため」の延長にある理由です。生き延びるために生きるだけではやっぱりやるせないです。やりたいことを思い切りやって楽しみたいのです。それには制約が少ない状態-自由-は不可欠だと思います。

最後の理由が「周りに優しくするため」です。僕は極力一緒にいてくれる周りの人に優しくありたいと思っています。(もちろん現状不十分なのは自覚してます。ごめんなさい。ごめんなさい。)

で、その優しさとは何かと言うと「強さによって生まれた余裕を、(自分ではなく)周りに対して使ったもの」だと思っています。ので、優しくあるにはある程度自由である(強くある)ことが必要なのです。経済的に強い孫さんは寄付という形で被災地の方々に優しくできるし、ITに強い人は情報インフラを作ることで、被災地を支援することができるのです。

そんな訳で、できる限り周囲に優しくありたいと思う僕は、自由を(その源となる強さを)重視するのであります。ただ、それゆえに自分の現状の非力さをうらめしく思うこともしばしばあり、色々強くなんなきゃなと思うことしきりな次第であります。はぁ。


【2020/12/14 追記】
自意識過剰な文体がキモい。あと自由を重視する理由が、なんか意識高いな。今、自由を求める理由を挙げるなら「やりたくないことをしたくないから」の一択。

自由を生み出すメカニズム

僕が重視する三つの概念の二つ目が「自由」です。この自由については二つのエントリーに分けて紹介したいと思います。

まず僕の考える自由の定義ですが、やりたい時にやりたいことができる状態、すなわち行動に対しての制約が少なく取りうる選択肢が多い状態というのが僕の考える自由です。

さてその自由ですが、生み出すためにはキチンとしたメカニズムがあると思ってます。結論から言うと、
強さ→余裕→自由
の順番で生まれていくものだと考えてます。

例えば重い荷物を運ばなければいけない状況において、体力的な強さを備えている人であれば他の人に比べて体力的に余裕を持つことができます。すると「人より多く運ぶ」「人より早く運び終える」「運び終わった後元気に遊びに行く」といった選択肢を持つことができます。自由な状態です。

もう一つ分かりやすい例が経済的な強さです。経済的に強いと金銭的に余裕ができます。するとモノやサービスを購入すると余裕ができます。選択肢が増えます。自由な状態です。

自由には他にも色々な種類があります。情報収集の自由度を上げるには語学力を強くするのが有効ですし、移動の自由度を上げるにはクルマやバイクといった移動手段に対しての(能力的&経済的な)強さが必要になります。

といったように、自由度を上げるためには余裕が必要であり、その余裕は色んな意味での強さから生まれるのです。

勉強する、体を鍛えるといった行為の必要性を感じている人は多くいると思いますが、それらの行為は「強さ」を手に入れる為の行為であり、その目的は「自分の自由度を高めること」にあるのです。

というのが僕の考える自由の定義とその発生メカニズムです。次回のエントリーでは、何故僕が自由であることを重視するのかについて触れたいと思います。


【2020/12/14 追記】
うん、いいこと書いてる。僕は勉強したり、体を鍛えたりっていうのをわりと自然にやっているのだけれど、それは「自由が欲しいのであれば、強さが必要」という信念に基づいているから。

なので、やりたいことができずにグダグダ愚痴ってる人をみると、たいてい「強くなれよ」と心のなかで毒づいてま


2011/11/20

自然であること

あくまで僕個人の考えですが、世の中の人、モノ、大きなところで言えば、民族、国なんかも全て「自然」な状態であるのが良いんじゃないかと思っています。

幸せの定義はそれこそ永遠のテーマと言える程に難しくこれが正解と言い切るのは困難ですが、翻って不幸せの背後にあるのは大抵「不自然」だと思います。

身近なところでは組織における不平・不満、電車内での乗客同士の言い争い、大きなところでは、民族紛争や戦争なんかも全て不自然な状態(少なくとも当事者にとっては)に対しての反応として発生していると思います。

ので、それら不自然な状態解消し、できるだけ自然な状態に近づけていくのが世の中として好ましい流れなのではないかと思います。自然=幸せと短絡的に言うのははばかられますが、少なくとも不自然というマイナスが解消されれば、幸せになるための土台はできると思います。

となると、世の中を良くしていくには、あらゆるケースでその背景に働いている力学を見抜きどういう状態が自然なのかを適時見出していく必要があります。かなり難しいことではありますが、おぼろげながらも見出せた力学・自然と思われる姿を、随時ここで発信していきたいと思います。(それががこのブログの主題なんです。)


【2020/12/12 追記】
文章的なツッコミどろこは多いものの、9年経った今でも同じように考えています。この「自然」という考えはおそらく一生重視していくと思う。

自然・自由・信頼

初めまして、高木龍平です。

このブログでは僕の眼から観た世の中の仕組み・力学的なものをできるだけ分かりやすく発信していきたいと考えてます。

その際に軸となる(ことが多いと思われる)のが僕が重視している三つの概念「自然」「自由」「信頼」です。

自然は世の中の人・モノの在り方として重視しているもので、三つの中で最も重要と考えています。

自由は僕個人の在り方についての概念で、個人としての強さ、余裕、優しさなんかと強く関連すると考えてます。

信頼は世の中のつながりにおいて重要と考えている概念です。(実は三つの中でまだ一番考えがまとまっていない概念です。。)共感とか、提供とかと密な関係があるのではないかと思っています。流行りの「ソーシャル」もここと強く関連してくると思います。

それぞれの詳細については、別途個別のエントリーにまとめようと思っています。

この三つの概念に基づく多分に主観的な話が多くなると思いますが、数多ある考え方の一つとして参考にしてもらえれば嬉しいです。もちろん途中で考え方が変化(進化と信じたいですが・・)していくこともあると思いますので、それについても随時触れていきたいと思います。

では、気長にゆるくお付き合いくださいませ。


【2020/12/12 追記】
記念すべき龍論初エントリー。WordPressにも慣れていなかったので技術的にも試行錯誤しながらどうにか公開にこぎつけました。けっこう昔な気がしていましたが、まだ9年前のことでした。

当時は精神的な拠り所がなく、自分の信条を確立したいともがく日々。それがようやく「自然・自由・信頼」として実を結び、そこまでの思考の過程を文章として残しておきたいと思ったのが、ブログを始めたきっかけでした。

あらためて読み返してみると穴だらけの思考ですが、ともかくも土台を築くまでには至った当時の自分を褒めてあげたいです。

ちなみに信条である「自然・自由・信頼」は、「自然・自由・多様性」とアップデートされた後、多様性が自由と自然に飲み込まれ、今は「自由・自然」の二本立てとなっています。