2012/01/28

手ぶらでもできるインプット&アウトプット

僕は基本手ぶら派です。よっぽどのことが無い限りはカバンは持たず、せいぜい持って小さいベルトポーチです。

でも、本も好きなのでいっぱい読みたいし、ブログもいっぱい書きたいです。

つまり手ぶらじゃなきゃイヤだけど、いつでもどこでも好きなときにインプットもアウトプットもしたい

そんなワガママを叶えてくれているのがこの品々。

じゃん。


kindle、iPhone、 折りたたみキーボードの皆様です。

まずはインプット担当のkindle。


Fireとか色々種類出ているけれど、小ささ、軽さ、安さの面で僕には一番廉価版のこいつがベスト。ギリギリコートのポケットに入ります。日本だと売ってないのでAmazon.comの方でお買い上げ。

続いてアウトプット。こちらはiPhoneと折りたたみキーボードの合わせ技でやってます。こんな感じ。


あっという間に簡易ポメラのできあがりです。本家ポメラも買ってはみたんですが、ポケットに入れるには無理があったのでこのスタイルで落ち着きました。 iPhoneの辞書機能にやや不満は残るものの、ブログくらいだったら問題なく書けます。折りたたみキーボードはこいつを使ってて、BluetoothでiPhoneとつないでます。

こいつらを今みたいな冬の季節はコートのポケットに、そうでない時はベルトポーチに忍ばせて、色んなとこウロウロしながら、暇を見つけては読み読み書き書きしています。

なかなか爽快なスタイルで気に入ってます。サイコー手ぶらサイコー。

ちなみにkindleへはいわゆる自炊して本のデータ入れてます。自炊エントリーは山のようにあるので詳細はそちらに任せるとして、僕的には
①分解。
②裁断。
③スキャンしてPDF化。
PDFDietでkindleへ最適化。(空白削除&文字補正)
⑤kindleへ投入。
って流れでやってます。どの本もほぼ問題なく読めてます。

ちょっと前まで自炊業者使ってたのですが、受付中止するところや納期が遅いところばかりになってしまったので自分でやるスタイルに戻しました。(ブー↓)

そんな感じで、身軽にふらふらと生きてます。

かしこ。


【2020/12/23 追記】
こんだけ持ち歩いてて、よく手ぶらと言い張れるな。手ぶらであることへの歪んだ愛着が見て取れます。

当時ならではの涙ぐましい努力です。今やスマホさえあればインプットもアウトプットもまったく不自由しない世の中になりました。

ちなみに龍論23個目のエントリーにして、初めての画像登場。ブログの性質上特に必要がなかったので画像を使ってこなかっただけなのですが、とある同僚からは「写真に頼らず文章だけで伝えるスタイルがかっこいいです」と高評価をいただいていたりもしました。

2012/01/23

電子書籍は「書籍」ではなくもっと物凄い何か

以前にとある新しい概念に名前をつけ(=言語化し)浸透するきっかけにしようと試みました。

一方で、既に言語化されている概念が時代と共にその姿を変えていく中で、過去の言語に縛られてしまい、概念の変化が見えづらくなることもあります。

その最たる例が「電子書籍」だと思ってます。

電子書籍はもはや書籍じゃないです。なのに「書籍」と呼び続けているもんだから、「書籍」にまつわる様々な縛りに捉われ余計な問題に巻き込まれる一方で、本来の可能性を発揮できずにいると思います。

そもそも書籍(=本)って何でしょう。

物体的には「糊付けされた紙の束」です。ただ、多くの人が価値を感じているのは紙の束ではなく「中身」だと思います。以前はこの「物」と「中身」が一体でした。その一体を称して「本」と呼んでいました。

しかしながら、近年の電子化の恩恵によりこの物と中身が分離できるようになりました。その結果、物から独立して存在できるようになった中身がいわゆる「電子書籍」です。が、これはかつての書籍の定義である「物と中身の一体物」でなくなっている時点で、もはや書籍ではないです。新しい何かなのです。それをいつまでも書籍と呼んでいるのが、いろんな不幸の元凶だと思います。

これを「書籍」扱いしているがゆえに、頑に「物と中身の一体としての書籍」の定義を守り続けている人から「裁断された本は正視に堪えない。などと攻撃を受けてしまうのです。

もっと不幸なのが電子化のメリットが十分に伝わっていないことです。物理的制約から解き放たれた中身はこれまでとは比較にならない新しい可能性に満ちています。

例えば「智の核」としての機能。物理的制約から解き放たれた中身は、もはや人間にとっての単なる一次情報ではなく、継続的に共有され、洗練され続ける事ができます。その中で人と人を結びつけ智を育んでいく智の核としての機能を持てると思います。

別の観点では、人間の情報が電子化された結果、人と人の関係が可視化された(=ソーシャルグラフが形成された)のと同様に、本もその情報が電子化されることで、本と本の関係も可視化され、本のソーシャルグラフの形成が可能になりると思います。そうなると核を中心に作られた智と智が繋がり合い、更に新しい価値を生み出すのではないでしょうか。

といった「智の核」と「本のソーシャルグラフ」。そこへ「人のソーシャルグラフが相乗的に作用し合った結果生まれる世界は、何かとんでもないモノになる気がします。僕は早くその世界が見たいんです!

かつての「(一体としての)書籍」を否定している訳では全くないです。物と中身が一体化しているがゆえに生まれる価値は間違いなく存在していますし、これからもそれは残ると思います。それゆえに、それとは全く異なる「物理的制約から解き放たれた中身」は書籍とは呼ばず、言語的にも制約を外し、もっと自由にその可能性を発揮していって欲しいです。

この「中身」、何て呼ぶのが良いんですかね。コンテンツ?味気ないしイマイチその可能性が伝わらないですよね。。。何か良い呼び方ご存知の方いましたら是非教えてくださいませ。流行らせましょう(笑)

(2012/1/26 追記)
一方ちきりんさんが電子書籍を語るとこうなる。


【2020/12/22 追記】
なかなかよい未来予測をしているように見えるが、その実、当時同僚に勧められて観た攻殻機動隊に影響を受けただけの話である。

9年経ってもいまいちこの方向に進んでいかないのは、書籍に内包される智が購入者のみがアクセスできる守られた存在であり、Googleに代表されるテック企業が自由に踏み込めないからなんでしょうか。

であれば、智の核・本のソーシャルグラフ形成の最右翼はAmazonかな。ささしあたってKindle Unlimitedに登録されてる本で核・ソーシャルグラフを構成し、Kindle Unlimited購読者にのみ開放するとかどうでしょう。

2012/01/21

Win-WinではなくHappy-Happy

今日は言葉尻を捉えます。(いつも?)

ビジネスの世界ではあまりにも有名な Win-Win という言葉。これ、あんまり好きじゃないです。意味としては「私もあなたもどっちにもメリットがある良い状態」ってことだと思うんですが、であればWin-WinではなくHappy-Happy の方が素敵です。

Win-WinだとどこかにLose-Loseな人達がいるんじゃないかと勘繰ってしまいますし、そもそも物事をWin-Loseの勝ち負けで捉えてる発想が下品です。「皆が幸せになれるように」という意味合いを込めてHappy-Happyをお薦めしたいです。

もともと好きじゃないんですよね、勝ち負けっていう概念が。というかゼロサムゲームが嫌い。限りあるパイを取り合うより、全体を底上げする方が好きです。

まぁ、何に不自由するでもなく恵まれた環境で育ってきたがゆえの甘い考えとは思いますが、もはや変わることの無い自分の性分なのでこの性格と仲良く楽しくやっていきます。


【2020/12/22 追記】
これは今も昔も変わらぬ僕の習い性。そもそも戦うという行為が好きでないので、その産物たるWinにも興味がない。

勝つよりも整うのほうに魅力を感じます。整った結果、無理せずに以前よりも余裕が増えれば大成功。そんなふんわりじんわりな幸せで十分です。

2012/01/19

「絆」について考えた朝

いつも楽しくブログのネタにしている参加しているとある朝活。今回もいつもながらに崇高かつ曖昧なテーマで頭をほぐしてくれました。

備忘的に今回のテーマとそれに対する僕の考えをまとめておきたいと思います。

今回のテーマ「絆」

Q1. 絆とは?
Q2. 人間関係とはどうあるべきか?
Q3. その「あるべき姿」に近づくにはどうすべきか?

僕の考え
A1. 絆とは日々の交流によって紡がれた信頼の束。
A2. その集団(コミュニティって言葉が適切か分からないけど取り敢えずそう呼びます)全体としてできることが最大化されている状態を目指していきたい
A3. 各自が自分が「できること」「できないこと」「やりたいこと」「して欲しいこと」を積極的に発信していく。

A1はほとんど過去のエントリーにまとめた内容のまんまですね。ほぼ 絆 = 信頼 だと思います。

A2は言い換えるとコミュニティの自由度を上げていきたい、ってことです。僕の中では自由=強さなので、コミュニティを強くするとも言えます。コミュニティを形成する個々が強みを存分に発揮し、弱みを補い合い、個としては持ち得ない自由度、強さを持てるような人間関係を作っていきたいです。もちろんその強さは震災のような有事の際でも生き延びる力につながります。

A3。
コミュニティを強くするには個々の強さをコミュニティの強さに転化することが必要です。ので、個々の強みは是非惜しみなく発信したいところ。一方でちょっと抵抗あるとは思うけれど、できれば弱みも同様に共有しておきたい。そうすれば、いざという時に誰が誰をどのように守れば良いかをあらかじめ考えておけるから。ここはある程度の信頼関係が出来上がってからのフェーズですかね
「やりたいこと」「して欲しいこと」は日々の交流機会を増やし普段から絆を強くしておくのに有効。できる/できないとの違いはさほど結果を問わないところ。結果ではなくなんらかの営みを通じて心が触れ合えればそれで十分です。

といったアクションを日々行っておくことで、絆を強く、コミュニティを強くしておけるのじゃないかなと思います。

書いてるうちに筆が乗ってきて、だいぶしゃべった話に盛った内容になりましたが(笑)

2012/01/17

宇多田ヒカルに「人間活動」が必要だった理由

「人間活動」に従事するためアーティストとしての活動を休止している宇多田ヒカル。その背景を勝手に推察するの回。

アーティストって何をする人かと言えば、「自分の価値観を何らかの(自分が最も得意とする)方法を使って表現する人」ですよね。となると、そもそも表現すべき価値観の在庫がなければ何も始まらない。彼女はその在庫が切れたんだと思う。決して悪いことではなく、それはそこまで精一杯製作活動をした結果。となれば、次なる製作を行うためにするべきは価値観の補充、それが彼女の言う「人間活動」なんだと思います。是非色んな経験を通じて発見した価値観を、お得意のリズムに乗せて表現して欲しいです。

落合同様に宇多田ヒカルも大好きなんで。

上でアーティストの活動を「自分の価値観を得意な方法で表現する」と表しましたが、多様性の世界ではそれって別にアーティストに限らないと思います。自分の価値観を自分が得意な方法で発揮して社会に役立てる。要はやることはそれだけです。全員がアーティストと言っても良いかもですね。

となると人がやるべきことって、
  • 自分の軸を見つけること
  • それを表現する方法を磨くこと
と、ごくごくシンプルがものなんじゃないかと思います。

にんにん。


【2020/12/21 追記】
一介の会社員(当時)が宇多田ヒカルの内面を語るなんて大変おこがましいですが、それもサラッとできてしまうのが個人ブログの良いところ。

その後宇多田ヒカルは無事復帰を果たし、今も精力的に活動されていてなにより。今後も期待しております。

ぶれない男 落合博満

大好きです、落合。言わずとしれた前中日ドラゴンズ監督。監督を務めた8年間でリーグ優勝4回、日本一1回という凄まじい結果を残した押しも押されぬ名監督で、僕が今一番「生き様」をお手本にしたい人です。

なにが凄いかって自分としての価値観の軸がはっきりしていて決してぶれないところです。彼の監督としての軸は「チームを優勝させること」。彼の行動の全てはそこへ繋がっています。

しかしその落合、稀代の嫌われ者の一面も持っています。無愛想ゆえにマスコミに嫌われ、客を呼べないと球団社長に嫌われ、WBCに選手を派遣しないと(一部)野球ファンに嫌われています。

ただ、それはチームの優勝を最優先に考えている落合にとってはごく当たり前のことです。戦いを有利に進めるために選手のコンディションを隠せばマスコミには無愛想と思われるでしょう。選手を試合に集中させればさせるほど(表面的な)ファンサービスはおろそかになるでしょう(落合に言わせれば勝つことが最大のファンサービスですが)。選手に不要の怪我をさせないためには、WBCに無理に参加させないのが一番です。全部落合にとっては「ごく当然の行動」です。でも彼と違う軸で物事を考える人からは嫌われます。

落合とその周りのどちらが正しいというものではないです。それぞれがそれぞれに自分の軸にこだわれば相入れない部分が出てくるのは仕方が無いことです。

ただ、そんな中でも絶対に軸をぶらさない落合の生き様に憧れます。

先のエントリーで「多様性の世界」について書きました。多様性の世界で重要なのは「自分の軸」を持っていることです。極端な話、多様性の世界では自分の軸を持たない人は何者でもありません。自分の軸を明確に持ってこそ、多様性の世界で輝けるのです。

そんな落合のようにぶれない軸を持って生きていきたいです。

その落合、監督業から退いてしまってとっても残念です。早くどっかのチームの監督として復帰することを切に願う。

p.s.
落合の最新刊「采配」はイマイチだった。確かに落合の考え方は多々紹介されてるんだけど、内容がビジネスマンに迎合し過ぎっ。もっと野球の話に特化した濃いーい話が読みたかった。


【2020/12/21 追記】
龍論のNo.1お気に入りエントリー。いいよねー落合。

その後も落合のグラウンド復帰は実現しておらず大変に残念。マンネリ気味で人気も停滞中の日ハムあたり、そろそろどーですかー!!

2012/01/07

教養無き論理は凶器

少し遅くなってしまいましたが新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

実は年明け早々風邪を引いてしまいまして。ようやく治ってきましたが油断せずに気をひきしめていきたいと思います。

さて今回のテーマは「論理」です。ロジックとも呼ばれてるやつです。

始めにお伝えしておくと、僕は2006年のベストセラー藤原正彦氏の「国家の品格」に深く傾倒しておりますためそこで語られている論理観が思考のベースになっています。あらかじめご承知おき下さい。

さて。

世の中にはたくさんの道具があります。その一つ一つは私たちの暮らしを豊かにしてくれます。ハサミも、のこぎりも 、かなづちもとっても便利です。上手に使えば色んなものが作れます。ただし、どんな道具でもその使い方を誤ると一転して人を不幸に陥れる凶器に変わります。ハサミ・のこぎり・かなずち、いずれもそれを人に向けた途端にたちまち凶器へと変貌します。

で、今回のテーマである「論理」。今の世の中論理が花盛りです。資本主義社会はお金を軸にして作られた論理の世界と言っても良いでしょう。が、しかし。しかしです。僕は思うのです。論理も単なる道具に過ぎないと。例えるなら「良く切れる包丁」くらいのもんです。「論理的に合ってること」と「正しいこと」は決してイコールではありません。良く切れるからって、なんでもかんでも切りまくっていいわけじゃありません。そもそも藤原氏も国家の品格で述べられている通り、論理なんてものはその気になればいくらでも後付けできるものなんです。にも関わらず「論理的に合っているから」の一言でそれが正しいとしてしまうのは非常に乱暴です。それは間違った凶器としての使い方です。

じゃぁ重要なのは何か。これも氏が述べている通り論理よりも先に必要なのは論理の出発点を見出す力です。氏の言うところの「情緒力」、僕の表現にすれば「教養」です。僕の考える「教養のある人」というのは「価値観の軸を多く理解している人」です(「理解」していればOK。「採用」しちゃってるとめんどくさい人かも)。先のエンントリでも出した話ですが人が物事に対して何らかの判断をするには、そもそもそういう価値観の軸があるということを認識しないことには話が始まりません(さもなければ極寒の地で凍えながら、なぜ辛いのか分かっていないようなものです)。教養のある人はその軸を多く持っているので考慮すべき軸を見落とすことが少なく、結果としてより良い論理の出発点を見出すことができるのです。大抵の場合は考慮すべき軸は複数ありますので、教養のある人はそれらのできるだけ多くを勘案した上で、最も全体として良かろうと思う判断を下します。論理を包丁に例えたのでせっかくなので全体を料理に例えると、教養のある人であれば考慮すべき軸として
  • ゲストの好み
  • 旬の食材
  • 器の形、柄
  • 彩り
  • 時間
  • BGM
  • 照明
  • 予算
などなどを挙げ(とは言え全てを満たすのはリソース上難しいのでその中から重視すべき軸を厳選し)、ゲストに楽しい食事の時間を提供することでしょう。良く切れる包丁(論理)は、上記の軸を勘案して導き出した解を確実に実現するための単なる道具に過ぎません。

一方で教養が無い人(価値観の軸が少ない人)は、ごく限られた軸にのみ従って論理形成を始めます。そうなればいかにその後の論理形成が速く・正確であろうとも、あるべき解には到達しません。なまじっか論理思考が得意な人であればあるほど確実に残念な解へ到達するでしょう。本人としては最善を尽くしているつもりなのに結果が伴わないとても残念な形です。こちらも料理に例えると教養の無い人が考慮する軸としては
  • 手に入る食材
  • 予算
といったところでしょうか。この軸にのみ沿って組み立てられたメニューを、良く切れる包丁を振るって見事に作り上げます。食材を一切無駄なく使い、四角い器に余分なスペース無く(合理的に)並べることでしょう。そしていざゲストにサーブすると・・・嫌いな食材があって食べてすらもらえなかった。ま、そんなとこでしょう。良く切れる包丁の奮戦空しく、準備した時間、ゲストの時間、食材全てが無駄に終わります。

とは言え落ち込んでばかりもいられません。なんとか次からはより良い解を導けるよう対応が必要とされます。論理を重視する人であれば「どこに論理の穴があったのだろうか。よしもう一度論理を立て直してみよう」などと考えるかもしれません。ダメ。ダメです。この場合、論理の内容(包丁の切れ味)ではく、論理の出発点がそもそも間違っているので、いくら論理を見直しても改善はされません。改善すべきは自分が考慮し損ねた「価値観の軸」を認識すること、すなわち教養をつけることなのです。それ無しにいくら考えたところで、論理の迷宮をさまよい続けるだけです。

じゃぁ価値観の軸はどのようにすれば増やせるのか。手っ取り早いのは論理の世界は一旦離れて、多くの人の人生観に触れることじゃないかと思います。具体的な方法としては、歴史・文学を学ぶとかになりますかね。そこから多くの人の人生を疑似体験し、様々な人が持つ価値観の軸を学び取るのです。価値観の軸が増やせるのであれば別に歴史・文学にこだわらなくても良いと思います。芸術とか、哲学とか、合コンとか。論理学だけは絶対ダメです。

という訳で、論理は単なる道具なので論理に振り回されずに豊かな教養を基に上手に使っていきましょう、というお話でした。

最後に困ったことがひとつ。プロフィールにも書いている通り、僕自身が相当の「理屈屋」なんですよねー。参った。そんな訳なので教養を身に付けるべく今年は改めて歴史の勉強しよっかな。まずは日本史、次に世界史かな。

今年もどうぞよろしくお願いします。

 
【2020/12/20 追記】
こりゃ耳が痛い。最近の僕はまちがっても周囲の人の価値観を積極的に理解しようとしてるとは言えないので、ダメですね。

当時でこそこんなこと書いていますが、会社員時代初期~中期の僕は論理の刃を振り回して周囲をズタズタに切り裂くスタイル。見捨てずに付き合ってくれた同僚には感謝です。