2012/01/07

教養無き論理は凶器

少し遅くなってしまいましたが新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

実は年明け早々風邪を引いてしまいまして。ようやく治ってきましたが油断せずに気をひきしめていきたいと思います。

さて今回のテーマは「論理」です。ロジックとも呼ばれてるやつです。

始めにお伝えしておくと、僕は2006年のベストセラー藤原正彦氏の「国家の品格」に深く傾倒しておりますためそこで語られている論理観が思考のベースになっています。あらかじめご承知おき下さい。

さて。

世の中にはたくさんの道具があります。その一つ一つは私たちの暮らしを豊かにしてくれます。ハサミも、のこぎりも 、かなづちもとっても便利です。上手に使えば色んなものが作れます。ただし、どんな道具でもその使い方を誤ると一転して人を不幸に陥れる凶器に変わります。ハサミ・のこぎり・かなずち、いずれもそれを人に向けた途端にたちまち凶器へと変貌します。

で、今回のテーマである「論理」。今の世の中論理が花盛りです。資本主義社会はお金を軸にして作られた論理の世界と言っても良いでしょう。が、しかし。しかしです。僕は思うのです。論理も単なる道具に過ぎないと。例えるなら「良く切れる包丁」くらいのもんです。「論理的に合ってること」と「正しいこと」は決してイコールではありません。良く切れるからって、なんでもかんでも切りまくっていいわけじゃありません。そもそも藤原氏も国家の品格で述べられている通り、論理なんてものはその気になればいくらでも後付けできるものなんです。にも関わらず「論理的に合っているから」の一言でそれが正しいとしてしまうのは非常に乱暴です。それは間違った凶器としての使い方です。

じゃぁ重要なのは何か。これも氏が述べている通り論理よりも先に必要なのは論理の出発点を見出す力です。氏の言うところの「情緒力」、僕の表現にすれば「教養」です。僕の考える「教養のある人」というのは「価値観の軸を多く理解している人」です(「理解」していればOK。「採用」しちゃってるとめんどくさい人かも)。先のエンントリでも出した話ですが人が物事に対して何らかの判断をするには、そもそもそういう価値観の軸があるということを認識しないことには話が始まりません(さもなければ極寒の地で凍えながら、なぜ辛いのか分かっていないようなものです)。教養のある人はその軸を多く持っているので考慮すべき軸を見落とすことが少なく、結果としてより良い論理の出発点を見出すことができるのです。大抵の場合は考慮すべき軸は複数ありますので、教養のある人はそれらのできるだけ多くを勘案した上で、最も全体として良かろうと思う判断を下します。論理を包丁に例えたのでせっかくなので全体を料理に例えると、教養のある人であれば考慮すべき軸として
  • ゲストの好み
  • 旬の食材
  • 器の形、柄
  • 彩り
  • 時間
  • BGM
  • 照明
  • 予算
などなどを挙げ(とは言え全てを満たすのはリソース上難しいのでその中から重視すべき軸を厳選し)、ゲストに楽しい食事の時間を提供することでしょう。良く切れる包丁(論理)は、上記の軸を勘案して導き出した解を確実に実現するための単なる道具に過ぎません。

一方で教養が無い人(価値観の軸が少ない人)は、ごく限られた軸にのみ従って論理形成を始めます。そうなればいかにその後の論理形成が速く・正確であろうとも、あるべき解には到達しません。なまじっか論理思考が得意な人であればあるほど確実に残念な解へ到達するでしょう。本人としては最善を尽くしているつもりなのに結果が伴わないとても残念な形です。こちらも料理に例えると教養の無い人が考慮する軸としては
  • 手に入る食材
  • 予算
といったところでしょうか。この軸にのみ沿って組み立てられたメニューを、良く切れる包丁を振るって見事に作り上げます。食材を一切無駄なく使い、四角い器に余分なスペース無く(合理的に)並べることでしょう。そしていざゲストにサーブすると・・・嫌いな食材があって食べてすらもらえなかった。ま、そんなとこでしょう。良く切れる包丁の奮戦空しく、準備した時間、ゲストの時間、食材全てが無駄に終わります。

とは言え落ち込んでばかりもいられません。なんとか次からはより良い解を導けるよう対応が必要とされます。論理を重視する人であれば「どこに論理の穴があったのだろうか。よしもう一度論理を立て直してみよう」などと考えるかもしれません。ダメ。ダメです。この場合、論理の内容(包丁の切れ味)ではく、論理の出発点がそもそも間違っているので、いくら論理を見直しても改善はされません。改善すべきは自分が考慮し損ねた「価値観の軸」を認識すること、すなわち教養をつけることなのです。それ無しにいくら考えたところで、論理の迷宮をさまよい続けるだけです。

じゃぁ価値観の軸はどのようにすれば増やせるのか。手っ取り早いのは論理の世界は一旦離れて、多くの人の人生観に触れることじゃないかと思います。具体的な方法としては、歴史・文学を学ぶとかになりますかね。そこから多くの人の人生を疑似体験し、様々な人が持つ価値観の軸を学び取るのです。価値観の軸が増やせるのであれば別に歴史・文学にこだわらなくても良いと思います。芸術とか、哲学とか、合コンとか。論理学だけは絶対ダメです。

という訳で、論理は単なる道具なので論理に振り回されずに豊かな教養を基に上手に使っていきましょう、というお話でした。

最後に困ったことがひとつ。プロフィールにも書いている通り、僕自身が相当の「理屈屋」なんですよねー。参った。そんな訳なので教養を身に付けるべく今年は改めて歴史の勉強しよっかな。まずは日本史、次に世界史かな。

今年もどうぞよろしくお願いします。

 
【2020/12/20 追記】
こりゃ耳が痛い。最近の僕はまちがっても周囲の人の価値観を積極的に理解しようとしてるとは言えないので、ダメですね。

当時でこそこんなこと書いていますが、会社員時代初期~中期の僕は論理の刃を振り回して周囲をズタズタに切り裂くスタイル。見捨てずに付き合ってくれた同僚には感謝です。