ストレスがなければそれで幸せと前回書いたのですが、その大きな要因となっているのが志が低いという僕の性質です。
この「志の低さ」はとんでもない長所だと自認しております。
目標を高く掲げ、日々努力を積み重ね、MLBで50-50を達成するような人生が素晴らしいのは間違いなく、僕もそういった姿に大いに楽しませてもらっています。
が、自分がそうなりたいと思うかは別問題。得るものが大きい代わりに費やす犠牲も膨大な人生は、そこで生じるストレスも相当なものと推察します。
自分がそれに耐えられるとは到底思えない。
もし僕の志が高く、「MLBで60-60だ」とか本気で思ってしまったらあっけなくストレスに潰されて心身ともに病んでしまうことでしょう。幸い志が低いのでそうはなっていませんが。
ここで留意しておきたいのが志の高低は後から自分の意思でどうこうできるものではなく、先天的なものと幼少時の環境である程度決まってしまうのではないかという点。
もしそうであれば次に重要なのがストレス耐性との食い合わせです。
志が高く、ストレス耐性も高ければ偉業を成すことも十分可能でしょう。
ストレス耐性が低くても、志も低ければそれはそれで幸せな人生(僕)。
問題なのは志が高いのにストレス耐性が低い場合。低いストレス耐性ゆえに志は遂げられない一方で、高く固定されてしまった志を下げる事もまたストレスというデッドロックに陥る可能性があるからです。
もちろん構造上の問題を見抜ければ対処のしようもありますが、そこに気づけなければストレスまみれの人生が待ち受けています。
幸いそうはならなかったので、志が低くて超ラッキーということです。
そう考えると子どもに対してむやみに「大きな夢を持とう」とけしかけるのもどうかと思う。
十分なストレス耐性があって高い目標を掲げられる子はそれでよいけど、そうじゃない子には「無理に目標もたなくても幸せな人生は送れるよ」という道を示してあげるのも大事じゃないかと、志低くのほほんと暮らしてる僕は思ったりするのです。
補足エントリー: 人が持つのはストレス耐性ではなくストレス許容量