2019/09/09

人の本質は「普通とする水準」にあらわれる

昨日のエントリーで環境の本質は「普通とする水準」にあらわれるという話を書きましたが、これは人に対しても全く同じことが言えます。すなわち人の本質は「普通とする水準」にあらわれます

知識量、清潔度、時間感覚、金銭感覚、立ち居振る舞いなどさまざまな観点についてその人が普通としている水準、それがその人の本質です。

これらを一時的に意識的に改ざんすることは可能です。他者に良く見られたいときに取りつくろうのは一般的なことでしょう。しかしながら、一時的にな改ざんでなく普通の水準を自体を変えるには努力を要します。ものによっては大人になってからの改善は不可能です。それゆえにこれらの普通の水準がその人の本質なのです。

どの観点を重視するかは人によって異なります。人間関係の面でみれば、重視する観点の水準が近いほどストレスなく接することができ、大きく乖離していると強いストレスを感じるでしょう。

すべてが完ぺきな人間はいないので「普通の水準」にばらつきがあるのは当然ですが、自分の持つ水準については自覚しておくべきです。「普通」であるがゆえに無自覚に過ごしてしまうことも多いですが、往々にしてこの無自覚な普通の水準の乖離が他者とのトラブルを生みます。セクハラ、パワハラ、マタハラ、スメハラなどなど世の中のハラスメントはすべて無自覚な普通の水準の乖離によって引き起こされているものです。自分にとっての普通の水準を後から変えるのは難しいですが、自分の水準が世間のそれと乖離していることを自覚していれば、トラブルを未然に防ぐ可能性も出てくるでしょう。

普通の基準の設定には先天的なものと後天的なものがあります。後天的なものの多くは幼少期に形成されるので、その期間の環境は極めて重要です。昨日のエントリーでも書きましたが環境を構築する立場にある際に、自らが重視しない観点において無自覚に普通の水準が低く設定されてしまっていることがあるので、ときおり他者の視点からもチェックしてもらうのがよいでしょう。