2012/03/25

「感覚」は高次元の論理だっ!

以前の理屈を捨てて自分の本当の価値観を見つけよう!というエントリーで「理屈を離れて感性で動くこと」の必要性を説きました。それを踏まえて、感覚と論理についてもうちょっと考えてみました。

で、今思っているのが「感覚」って「高次元の論理」なんじゃないかということです。

ベースになっているのが、
①論理は言語で構成されている。
②事象は言語化される時点で、多くの情報が削ぎ落とされている。
という二点です。

順番にいきます。 まず①ですがこれはあまり深い説明は要らないと思います。論理はそれを人に伝える必要があることから必ず言語化されます。それが文章であったり数式であったりするかも知れませんが、いずれにせよ最終的には何らかの言語表示がなされます。

続いて②。論理の表現法となっている言語ですが、そもそも言語は全ての情報を伝えきることはできないという宿命を背負っています。例えば薔薇の色を「赤」と表現したところで、その赤という情報を受け取った側が頭の中に再現する色は千差万別。おそらく最初に薔薇が持っていた赤とは微妙に異なる色です。それを補うため「真紅」とか「鮮紅色」といったより細分化された表現もありますが、元の色を完全に表現するのは不可能という点は同じです。

という二点を踏まえると、言語化されている時点で情報が削がれている以上、全ての事象を包含した論理を言語を使って表現するのは不可能ということになります。

じゃあ、言語化せずに論理を表現するにはどうしたら良いか。それが「感覚」じゃないかと思います。様々な事象が言語化されることなくオリジナルの事象として脳内で処理され、導き出された結果が感覚なんだと思います。「なんか上手く言えないんだけど、なんとなくヤダ」というのがまさにそれです。と考えると、感覚は言語論理ではまかなうことができないより多くの情報を処理して導き出されたより高次な論理と言えると思います。

ゆえに感覚ももの凄く大切なんです。

(言語で表現された)論理が無意味と言っているわけではありません。複雑な事象を整理して考えるためにはモデル化が有効なので、まず言語化して扱いやすくしてから組み立てるというのが有効なケースも多くあります。

でも論理だけでもダメです。世の中には言語化されない情報も山のように溢れているのですから、それを無視して組み立てられた論理だけで世の中に働きかけていくと無理が生じるのは自明です。

最終的には論理と感覚をバランス良くというごく当然な結論に至るわけですが、それの言わんとすることは言語化されている情報とされていない情報の両方をしっかりと考慮して判断しましょうということです。

では。

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永田洋子氏 死亡 - Chikirinの日記 (感情は理屈より圧倒的に正しい。というお話。)

 

【2021/01/04 追記】
ぐあ、この文章書いてたことすっかり忘れてた。忘れてたもんで、理屈を捨てて自分の本当の価値観を見つけよう!への直近の追記で
感性などという曖昧模糊としたものに、理屈の代役を任せてよいものなのか?という点に明確な解が出せない
などと書く始末。直近の自分が、過去の自分に反論を食らってちゃ世話ねえや。