どの本だったか忘れたが、IT革命とは情報が実体を失い質量から開放されたことだと書いてあった。まさに情報の本質であり、これを理解できているか否かで、人のふるまいは大きく異なってくる。
古来より情報は常に質量とともにあった。石に刻まれた絵や文字にはじまり、木簡、そして紙へと時代は変われど、情報は常に質量を持つ何かに刻まれてきた。
世にデジタル化の波が押し寄せ情報はその姿を変える。それまで実体として存在していた絵や文字は0と1の数字に形を変え、CD、DVD、ハードディスクなどに保存されるようになった。
デジタル化はIT革命に不可欠な過程ではあるが完成形ではない。たとえデジタル化により情報が大量に保存できるようになろうとも、CDやDVDなどの実体のあるものに保存されている限りは大枠の意味では書類や本と変わらない。その情報はまだ質量にしばられているのである。
IT革命が完成を見るのは情報がインターネット上に保存されるようになってからだ。この時点で情報は完全に質量から解き放たれ自由となった。(厳密に言えば地球上のどこかに実体として存在しているサーバーに保存されているのだが、ユーザー観点でそれを見ることも意識することもない)
この質量から解き放たれた姿こそが情報の本来の姿である。そもそも情報とは実体を持たず目にも耳にも知覚されないものであり、それゆえに移動も拡散も複製も自由なものなのだ。その実体のない情報を実世界に召喚し、見たり聞いたりできるようにするのがスマホやパソコンであり、逆に実体から情報のみを抽出するのがデジカメやスキャナーなのである。
以上の情報の本質を理解できている者は、インターネットを起点として物事を考える。情報の本来の住処はインターネットであり、普段はそこに放牧しておき、必要な時、必要な場所に召喚すればよい。
一方、本質を理解できていない者は、情報の住処を何らかの実体(書類や本などの紙や、パソコンのハードディスクなど)に求める。彼らにとって情報とは実体として知覚できるべきものであり、質量を失うなど考えもしない。
この両者の世界観はことごとく対立する。情報のあるべき場所が決定的に異なるからだ。その結果、両者が混在する組織においては紙へ印刷をする/しない、情報をインターネットに上げる/上げないなど、いさかいが絶えることはない。これは情報の本質を理解する者としない者の宗教対立なのである。